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比較する・されるが悪いわけではない

子育てをしていると、○年生にしては背がひくいだの、点数が取れるだの成績が誰と比べてどうだの、あんなに性格が良くて働き者なのに採用して貰えないだの、いろんな「比較の結果」の声の中に入ることがある。

好むと好まざるとに拠らず、私達は周囲と比較しなければ自分自身ってものを表現出来ないのは事実。
外見ですら、最初の入り口は「背が高い,低い、太っている、痩せている」・・・どれも全部他者と比較してのものだ。美しい可愛い、ですら どこかしらに「中央値」(そんなものあるわけ無いが)があって、かつ個人の理想(これはもう百人百様)があって、それに対しての比較で始まる。
だから人間は外見に関してはそれを逆手にとり比較できるものを「見せて」表現する。手っ取り早く誰でもある程度すぐできるから「大事にしよう」ともいう。

ティーンの子供たちの中に自分のやることに全く自信が持てないっていう一群と、あるいは盲目的に自信に溢れたふりをする一群があるという両極端な事を見るのは、この【比較】のなかに認知があるという難しさにその年齢で直面するからだと思っている。そして比較には根拠や自信=外側からOKを貰える率っていうものがついて回るので、群れたり孤独感に苛まれたり、一人で「対人苦手意識」を盛大に育て上げてしまったりする。

じゃぁ、比較をしなかったらいいんじゃない?と時々聞く。いやいやいや・・・悪者をすり替えてませんか?

外見、内面、気性、負けん気、智慧、知識、技量に技術・・・・etc。人間として授かっているもの、備えて深めていけることはそれこそ沢山あり、それぞれの要素の多寡で「そのひと」らしさが形作られる。それは多いから良いとか悪いとかではない。持つもの、見せられるものの傾向であって、「比較するのがバカらしい」と一言で片付けるひとがいるのもまぁ、一理ある。
それらをバランス良く、自負も自信も自分への疑いも嫌いな部分も「私ってそういうもんだ」と受け取れるまでに、とてつもなく長い時間がかかる、というか私は半世紀生きてもまだときどきもがくくらいだから子供にはなかなか大変だろう。

最初に言った様に比べる、比べられるということは人間社会においてある意味「前提ルール」だ。比べることで「自分」の表現すべき部分も分かるし、他人も「あなたを表現」するとき、周りと比べて目立つもの秀でているものからあなたを描写するだろう。野生動物なら比較できる能力というのは子孫を残せるかどうか、とか生死につながる。問題はそれを「呪縛」ととるか「その上で自分の在り方を知るもの」とするかじゃないかな。

点数化は比較のもとだからやめよう、という意見がある。でも点数化って本来、「公平さ」を追究してのもの。むかしむかしはそんな物がなかったから、「どこそこの誰それはアタマがいいらしい」というウワサと有力者の口添えで仕事につけたりつけなかったりしたんだから、それと比べたら「一定基準の単純な比較化」としては素晴らしい。私達が止めるべきは「点数が取れる」と「良い・悪い」という、違う評価を繋げるところだ。

点数化をひとつのやり方として採用した社会システムのなかに私達は暮らしている。システムって構築が難しく、かつ一度作り上げられるとなかなか変わらないという特徴がある。またシステムというものに多くの人が「単純化したやり方で次のどのベルトコンベアーに乗るかを決めて行けたらな」という期待・希望をもつから存在する。そこには「公正さ・公平さ」と「選ぶ側の労力を減らす」という2つの課題が常にあり、「一方を取れば一方が沈む」のは当たり前なものでもある。けれど、もともと「公平さ」自体も曖昧だし 本来点数化できないところを「点数化出来るところを評価の代用とする」という無理な前提のもと点数化しているんだから、完璧なものなんて多分、どんな未来に向かってもあり得ないと思うんだよね。

何が言いたかったか、というとだね。

なんか、比較するのがいけない、みたいな風潮や かと思えば「それは無理あるのでは・・・」な比較をしてこっちが良くてあちらはダメと言ってるものを見ると、問題の本質や比較ってことの大原則を無視してるなぁってことが沢山あるわけ。ま、それぞれのひとの受け取り方って言ってしまえばそうなんだけど、もっと私達は「基礎に多様性」があって、比較は「本来比べることなど出来ない物事を‘便宜的に’比べているだけ」なんだってことを常識として持っていいんじゃないかな。多様性、がわからないなら「いろんな立場のひとを想像してみる」でもいい。そう、想像力。大事なんだよ、想像力って。

そうするとさ、「なんとかして公平な(あるいは公平に見える)点数比較を」ってするひとたちのことも、「本来比べられないものに持ち込む’比較’に、絶対性も正義もない」ってことも分かると思うのね。子供達に自信をもって「学校で取る点数があなたの人生を決めることはないのだよ」と言えると思うんだ。(まぁ、現時点の社会システムでは点数をとると選択肢が増える、ってのはあるけど)「この体重範囲になかったら結婚できない」なんてこともないし「××の添加物を止めなかったら死んでしまう」という極論も和らぐと思うのね(極論バカ、つまりヒ素みたいなそういうケタ違いな致死性あるものをこの添加物話題に持ち込むバカは置いといてね)。

比較する、が人間として生きて行くなかでの前提事項のひとつなら、私達がどこに目を向け、どこを反省し、どこは気にしても仕方のないことか、どこは「まぁ、そういうこともあるよね」って許せるかが変わってくるんじゃないだろうか。

折角基本的な教育をうけてきた大人なら、そういうバランス感覚と想像力を是非 子供につたえていけるようになろうよって、もの凄く思うのだ。



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