言葉を教えるときに目指すもの
日本語を教えてほしい
これは時々持ちかけられることで、つい先日も知人の日系人から日本語を学びたいという小学生の相談を受けた。言葉を教える、というときに私にはいつも思い浮かべる先生が1人いる。私の英語知識の根幹をたたき込んでくださった塾の先生だ。
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私の育った時代は中学から英語の授業が始まった。そうやって英語の授業はその後私には大学の教養課程まで続くのだが、その頃のことや海外生活を通していつも思うのだ。小学6年生のころ(5年生の終わりだっただろうか)から中3まで通った英語塾での知識が、現在に至るまで私を支えてくれているという事実って、すごくないか。今も実家の屋根裏に押し込んだ私の私物の段ボール箱のどこかに、あのノートが残ってると思う。もう何年も見てないけれど自分では捨てた覚えはないから・・・。あれは、宝物だった。
英智学舎、という塾だった。先生のお名前は記憶の中であやふやだが(ググっても全く出てこない。当たり前か・・・)樫村先生、じゃなかったかな。青山学院大学の英文科とか(うろ覚え・・・)を卒業された方で、アメリカにも住んでいらしたとか聞いた気がする。私がこれらを聞いたのが昭和50年代半ばだ、ということは先生は下手すると昭和40年代、いや30年代後半?とかにアメリカにいらしたのか。第二次世界大戦の終戦が昭和25年だから、そう考えるとスゴい話だ。若い方は知らないかもしれないが、私が小学生だった1970〜80年代というのは日米自動車摩擦なんてのもあって、第二次大戦後に一時和らいだ日本人への反感が(場所によってだが)またヒートアップした時代だ。
母がどこでその英智学舎を知ったのかは全くわからない。けれどある日4歳上の姉達(双子なのです)が通い出し(と思う)、そのまま姉達に続いて私も2歳下の妹も通った。我が家からは10年弱だれかが通っていたことになる。
初めて先生に挨拶に伺ってお会いしたとき、もしかしたら子供の記憶なので脚色がおおいにかかっているかもしれないけれど、、先生は40代後半か50代に見えた(実際は・・・わからない)。第一印象が大変失礼ながら「人間って本当にハンプティダンプティになれるんだ!」だった。当時そういう体型の人は少なかったように思う・・・いや、今もかな、日本では?体型だけでいえば樫村先生はアメリカ人で通った。まぁとにかく声の良く通る、背もそんなに高くない「ダンプティ先生」は、あまり目を合わさず「はい、よろしくね。よく出来るお姉さんたちに負けないように」とおっしゃった。ただでさえ「美人で何でも出来る双子・・・の妹」としてしか自分を認められなかった私には震え上がるのに充分すぎる一言だった。
小学生たちに先生が最初に教えたのは「アルファベット」と筆記体含む「その書き方」。多分びっちり2回の授業に渡ってそればかりだった。今思えばとても理に叶っていると思う。日本ではそろばん塾も最初は数字の書き方からだったように記憶しているが、他人が読めない文字は絵でしかなく読んで貰えるわけがない。ああ、当時はまだ全てが手書きだったからね。
あ、思い出した、あまりに読めない字を書く小学生の息子に私は「読めない字は書く意味がない!」と叱り飛ばしていたっけ。あの塾あたりからのすり込みかなぁ・・・ そして息子の字はまだ私にはなかなか読めない。パソコンやプリンターが普及してくれて良かった。
話が逸れた。
続いて「英単語の綴り」の基礎。発音基礎だ。樫村先生の発音は聞き取りやすかったが同時に先生の作る「音の違い」を聴き取れはしても 私はなかなか再現出来なかった。発音記号とその「音の作り方」(舌や、頬や、息の吐き出し方など細かく教わった)、綴りで決まってくる発音(つまり読み方)の基礎から例外まで(オバケは見えないし音もしない、とghostのhのことから始まった授業は今も覚えている)、あの時習った発音記号の理解は他言語を学ぶときもまだ使えている(飽き性が習得の壁になっているけれど)。
そして文法用語の説明、まずは「定義」を日本語で完全に理解。名詞とは何か。動詞とは何か。形容詞と副詞の見分け方は。そんな基礎を何回も何回も繰り返して習う。なんだったらしばらくあとに「名詞節」みたいな新しいことを学ぶときに前のノートそのままに再度復習ということもあった。
樫村先生は板書は最低限で、基本は「先生が話したことをそのまま書き取らせる」ことをしていた。間違えやすい部分、聴き取るには長い文はゆっくり、繰り返し伝えてくれた。やっていたことは、そう、自分の文法書を自分で書かせたのだった。今ならタブレットでカチャカチャとタイプしたり書き込んだりできる子供もたくさん居るだろうが、もし先生がお元気だったら今の時代でも「手書き」させただろう。だって、書かなければ覚えない、覚え方を自分で作らなければ身につかない、といつもおっしゃっていたから。そしてそれには強く同意する。
中学3年の授業が何月頃で終わったか、よく覚えていない。でもこれだけは言えるのだ、私の英語基礎は90%ちかくがこの塾の教室で得たものだ。高校の授業はほぼ寝ていたが この基礎知識で大学受験まで乗り切った。というか理系だった私には英単語を増やすくらいで追加での英語の文法勉強は必要無いくらいだった。というのは言い過ぎ・・・かもしれないが、基本を抑えている自信は常にあったし学校の先生からもそのように見えていたようで、文転(文系学部に変更すること)を勧められていた理由でもあった。
英智学舎で一緒に学んでいたメンバーがたくさん同じ高校に進学していたが誰もが英語での高得点は当たり前だった(ので私が特別出来ると思ったことはない)。他の高校に進んだ人たちも英語を得意としていたと記憶している。
今だから言えるけれど 英語圏で暮らし始めた私は、「英智学舎での基礎知識」をいつもシークレットブーツのように履いてすごしてきたと思う。あ、シークレットブーツっていうのは実際の身長より5〜7cm身長が高く見える底上げブーツです(今もあるんだろうか?)。
渡米後10年くらい経ってようやくマグカップMugを自信をもって発音できるようになって、ああ樫村先生が一生懸命説明してくれたことはこういうことだったか、と体感したこともある。(もちろん私のは強い日本語訛りのある英語だけれどね)
記憶に残る授業をしてくださった、樫村先生は確かに私の人生のなかで出会ってよかった先生のお一人だ。
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どうせ日本語を教えるなら記憶に残る形で伝えたい。今はたくさんの本も出回って日本語教材で独学もできるからこそ、私ならどんな記憶につながるものを作れるかな、と、樫村先生の授業を思い出しながら考えている。
本や、学校で教わるような体系的なことは是非、そっちでお願いしよう、と思っている。私が言葉を教えるときは日常と言語をつなぐ、記憶に残る何かであったらいいなと願うから。樫村先生ほどじゃないにしても、「あ、この日本語の使い方はTomokoに教わったっけ」って、そのひとにずっとあとで思いだして貰えたら最高だなぁ、なんて思いながら。
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