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表で書きたくても書けないことですが

これを読んで今の状況を知った海外勢の私(ニュース知るのが遅い)。

ヒトミさんが納得出来るご自身の結論を、私はただ支持します。

さて、七夕の昨日から(偶然です。言われて気付いたw)Cakesというウェブ媒体で「コロナ禍の楽観主義」という4回の連載をさせて頂いてます。で、いろいろあるのですが 敷居を低く・怖さを取り除くために極力詳し過ぎる説明や展開を省く努力を編集さんとしてきました。

その中で、それぞれの立場での意見の明示の仕方ってのもあるよなって、思ってきたんですよ。私はそこでは主婦目線で、主婦でもわかる科学を説明する。
だけどここで書くのはその中(表)では話が広がり過ぎるとかちょっと説明難しいね、とかでボツった完全に個人の意見です。だから全て〈私の責任〉の意見です。


ヒトミさんが決めることを支持、っていったのは、「誰を笑顔にしたいか」を決めるのは、そしてその重要性を知ってるのはヒトミさんしかいないから。

連載第1回の記事で書いたけど、「予防を考える」ことは不可能じゃない。どんな世界にも絶対はないけど、それは予防だろうが感染拡大だろうがどの方向にも言えること。
不確実なことがゴロゴロしてる中で、確実なことを重ねる。そして「あ、石橋のこの部分まではしっかりしてる」と確認する。そういう試し試しな、1歩どころか半歩、20cmずつ、とかの小さな前進を繰り返すことでしか、安心して出来ることは増えないし社会の中の受け入れも出来てこないものです。

国という大きな社会を取りまとめる政府にはもうちょっと中間目標みたいなのを常に宣言しながら種々の方向性を示して欲しいし(時系列で変わっても良いけど、みんなが「そこが今めざしてるところか」ってはっきりさせて欲しいと思ってます。まぁそれやるとオリンピック出来ないからこまるとかあるんだろうけど、それでも!(今回の緊急事態宣言も願わくば、その目標をもうちょっとみんなに分かるようにしてほしいなぁと)

例えば「ワクチン接種率が○%になるまでは新規患者数を各地域100人/日以下にしたい」「ワクチン接種率が上がらない場合△人以上の大規模イベントは禁止」「ワクチン接種率と新規感染者数の目標はこれこれで、片方クリアしたらこの経済活動OK, この両方をクリアしたらマスクも各自治体や各店舗の判断に委ねる」とか、そういうの。

一方で各市町村レベルの行政には「禁止が多い中で出来ること・積極的にやっていくこと」を広報活動してほしいなと思ってます。ただし書き付きでいいから。何故なら、1)それを個人レベルでやるのはほぼ不可能だから。2)禁止を言うのは簡単、難しいのはどこまで認めるかを伝える事だから。そして責任はね、個人ではなくある程度大きなまとまりを抑える部署(行政)が請け負うもんだ。(だからといってそういう行政の重箱の隅つついてくる個人はどアホだとおもうけど)

今 何度目かの緊急事態宣言で、自治体レベルにはここをやってほしい。
〈禁止です、以上!〉は個人の生活に沿わないと分かってるんだから。

56国には「目標はここ」と示して貰った上で、より小さい行政で「それぞれのやり方案をだしてもらったら、できるだけ後押しの承認をします」みたいな。分かってます、すごく仕事が増えることだし「そんなことウチの管轄じゃない」とか言えちゃうことも。
だけど、今をしのげば良い事じゃないってわかってるからこその、もう一歩踏み込んだところへ・・・ どうでしょう。そしたら、ヒトミさんみたいに苦しんで解決策を探す人の目の前の石がひとつ、除けられると思うんです。


という一方で、今の状況を見渡して感じるのは、個人レベルの意見の明示にはちょっと別のお願いをしたいってこと。
私はどんな意見を持つのもイイと思うんだけど、求められてないところで「個人恐怖政治」を流布するのは止めてほしいんですよね。

意見を言うのはいいけど。
「誰々が悪い」って悪者さがし・悪者やり玉上げの意見表明じゃなくて 自分はこう思う、マル(ピリオド。読点)でいいのだと思うのですよ。

だって、解決策を提示してないから。公に「あ、それいい解決策だね」ってなるものをもっているなら明示していいけど、「あいつらのせいだ、あいつらが嘘ついてる」は何にも解決にならないでしょ。あなたは代わりに行政できるの?って聞いたら黙るよね。まちがいなく。

(私も「うっわ、腹立つ!」とか書くけど。でも対象は宙に浮かすようにしてる)


だからそれぞれの立場で明示すべきこと、言うんだったら前向きなことを考えさせることは忘れちゃいけないなと思うのです。
個人レベルと行政(大きめの社会)レベルではやること・提示することが違うのは当たり前、見てるところが違うんだから。だから中小の行政は間を取り持つ、折衷案みたいなのを示して欲しい。
そういうのが出たら・・・・さっきも書いたけれど、ヒトミさんみたいな苦しい選択を一人で考えるっていう時に、すこし楽になるんじゃないかと。

さて、よばれやさんの話に戻します。

ヒトミさんの決定だけど、私からは提案はある。すんごく小さいことだけどきっと大事なコト。
手洗いとか、全員マスクつけるとかはもちろん。

その場で食べるにしても「ソーシャルディスタンス、心がけてね」みたいなメッセージカードをつけるとか。(それだけ!だけど「あ、そうか」って思い出すし周りも「そういう工夫かぁ」ってわかる)
ごはんを手渡すときに「出来たら周りに人の少ない外で召し上がって下さいね、きっと今日の空気とでさらに美味しくなるから」とつたえるとか。

そうしたら、和気あいあいと食べる、はちょっと控えめになるけどコンセプトはちゃんと届くのではないかな。中止よりは、なにかが届くんじゃないかな。

ごはんブースの前には「まわりのひとを思い遣る取り組みです」って大きく書いて貼り出すとか(アピール大事)。だってほら、そこでよばれやさんの温かなコンセプトに共感するのも「思いやり合い」、感染拡大に気をつけながらも「あ、もしかしたら気をつけたらこれも出来るのかも」って希望で みんなの心を明るくさせてあげるのも思い遣り、そういう慎重に石橋叩いて進もうってひとを理解してみようっていうのも思い遣り

ダメだダメだで縛るのは簡単。

ねぇ、私の世代の人ならわかるよね、厳しい校則にしばられた中学校時代とか。あれって、だれも正解って思ってなかったでしょ?

原則を抑えるのは制限をふやさない「周りへの優しさ」でもあるし、制限する校則を増やさなくても出来ることは実は増やせたと思ってます。
抑えつけられてるって思うから反発するという無駄な構造があったんです。

進んで原則を押さえたうえで「こんなアレンジどう?」って見せるのは、周りを笑顔にしていく「周りへの思い遣り」行為とも言える。そのアレンジ、チャレンジを咎めるんじゃなくて「おお、確かに原則外してない、凄いね!」って言ってあげられるのも その勇気出してるひとの背中を押すような、結果「思い遣る行動」じゃないかなぁ。


そのうち連載で触れることだけど、(そしてあまり過度な書き方は控えたけど) 抑えつけるではなく 原則を共有してそこから何なら安全だろうかって智慧をしぼる、その努力をするひとを見守るとか もしくは意見交換して前向きな話し合いをする、それはこの先も付き合う【ウイルスが居て当たり前世界】で 優しい社会にするキモだと思う。
責めるんじゃなくってみんなで工夫する。みんなでKAIZEN、ですよ。

ほら、周りを見てみてよ。

「あの人、ダメなことやってる」
「みんな我慢してるのにあんなことやって」

が暴走してませんか。

行動するひとも、それを周りで見る人も、「周りの人を思い遣る」というワンクッションを噛ませたら 双方へんなところに暴走しないと思うのです。


ながくなっちゃったけれど、私は誰もが「智慧を絞って、出来ないと思い込んだことを少しずつ外す」ことを、心から勧めたい。「押さえつけられてやってられっかぁ!」と箍(たが)が外れとんでもない事をやる人が出て社会問題になるより、ずっとイイと思うんですけどね。


だから・・・ヒトミさん。あなたの決定をどんなものでも支持するけど、負けないで。世界を優しくしていくのは、誰かが始める小さな1つのことだと思ってます。

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ヘッダー画像はみんなのフォトギャラリーより、henachocoさんの作品をお借りしました。素敵なお写真をおいてくださってありがとうございます!


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