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自然体で生きる

雨あがりの午後


寄る年波には勝てないようで、愛犬が歩けなくなり、一日をほぼ横になりながら過ごしています。

とはいえ、自力で寝返りをうつことはできるし、ご飯も量は食べられないけど食欲はあるし、介助すれば排泄もできるし、瞳は生気に満ちている、といった様子です。

雨が続いたお天気のせいか、なぜかひゅっと涙腺を刺激され、うえーんと泣いていたら、愛犬が急にやる気を出してところどころで笑わせてくれて、心がほっこりしました。

動物の雄は、雌より身体が大きかったり、力が強かったりします。

外側が「陽」なほど、内側は「陰」だったりします。

「男らしさ」「女らしさ」という言葉とは裏腹に、雄は雌より繊細だったり女々しかったりするし、雌は雄より図太かったり雄々しかったりします。

我が家の愛犬(雄)も、大きくてゴツめの見た目のわりに気が小さくて甘えん坊なのですが、変なところで男気を発揮するのだなあと感心しつつ、優しさは強さってのは本当なんだなあと学びました。

惚れてまうやろ。

涙のわけ

何によって涙腺を刺激されるのか。

悲しい、わけではないのです。

日常のちょっとした風景が、眩しく、愛しく、ありがたく。

その瞬間の連続の、儚さ、尊さを、心の深いところでひゅっと感じてじわっと広がった時に、涙が出るのです。

過ぎ去っていく日々のあれこれを後々までずっと覚えてはいられない私だから、ありきたりな日々のこの瞬間の感動も、いつかはさらりと忘れてしまうのだろうと思います。

そんな自分を知っているから、だから、ちょっと寂しくなるのです。

自分が生きた軌跡も、今振り返ると、夢だったのかもね、なんて思ったりするのだから。

今だけがある

いつだって、今は今にしかありません。

心の中で何かを想う時、そこに境界はないので、今だけでなく、過去も未来も、今にしかないのだろうと思います。

心の中は、全部ひとつだから。

全ては、私の中に、エッセンスとして溶け込んで、満ちている。

「諸行無常」というけれど、見方を変えれば、何も変わっていないし、何もなくなっていないし、そもそも、何も起こっていないのかもしれません。

そう思うと、寂しさも幾分ましになるような、逆に、なんだか寂しいような。

ただ在るだけで

在るがままに在るだけでいいのだ。

愛犬と向き合っていると、単純に、そう思います。

犬は、人間のように、余計なことをあれこれ考えて生きてはいません。

生きるも死ぬも、自然におまかせ。

ただ、在るがままに在るだけです。

以前、ある有名人が「私は今流行りの〈ありのままで〉なんていうのは大っ嫌い」と言っているのを聞いて、なんとなく心がきゅっとなったことがありました。

堂々とした立ち居振る舞いで、多くの人に知られていて、影響力もあり、確固たる地位を築いておられるように見える方なのだけれど、その内実は、すごく苦しそうだなあ、と感じました。

私には、その言葉は「私だって在るがままの自分を認めて欲しかった」という、強烈な心の叫びに聞こえました。

在るがままの自分では認められない、のだろうか。
在るがままの自分では愛されない、のだろうか。

愛犬と向き合っていると、そんなことないんじゃないかな、と思うのです。

だって、少なくとも私は、在るがままに在るだけの愛犬のことを、愛しているから。

根拠は、それだけです。

誰もが心の底から欲していることは、在るがままに在る自分を認められ愛されること、なんじゃなかろうか。

しかし、犬にはたぶん、そんな欲求すらなく、愛されるも愛されぬも、自然におまかせ。

学ぶことは多い、と、今日も愛犬と向き合いながら思うのでした。

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