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問題を無効化する

前回の記事で、こんなことを書きました。

問題は、それを問題と捉える人にとってしか問題にはなり得ないのだ

金の斧 銀の斧 / moimoi

これについて、もうちょっと掘り下げて書いてみようと思います。

俯瞰する

前回の記事に書いたのですが、先日、自分でも驚くほどの怒りが湧きあがってきたことがありました。

こんな時、私はいつも、自分の感情を俯瞰するようにしています。

俯瞰する時、自分以外の人はどんな感覚でされているのかわかりませんが、私には、感情から自分を切り離したところから眺めている感覚があります。

以前、それについての記事を書いたことがあります。

感情と一体化している自分から、スポッと意識が抜けて、その状況を客観的に眺めている自分がいることに気づいてから、私にとっての「俯瞰する」は、このスタイルに落ち着きました。

感情と一体化している自分(感情こそが自分であると感じている意識)を体感しながら、それを、感情と分離している自分(感情は自分の本質ではないと知っている意識)から眺めている、そんな感覚です。

感情と観念

感情と一体化している時は、感情こそが自分であると感じるのだけれど、俯瞰すると、感情は自分にまとわりついている「観念」によって生じているだけで、自分の本質ではない、ということがわかります。

生きていると、心がざわっとすることなど、日常茶飯事です。

それは、相反する観念との出会いにより、自分にまとわりついている観念の存在意義が揺らがされるからで、自分の本質の存在意義が揺らがされているわけではありません。

先日、私の中に湧きあがった怒りの感情は、私にまとわりついていた仕事に対する観念によって生じたものでした。

期待には応えなければならない。
依頼主の要望は叶えなければならない。
働いた分の対価はいただかなければならない。

こんなところでしょうか。

しかし、今回の依頼主は、聞けども聞けども要望がわからない、働けども働けども満足いただけない方だったため、私の観念は存在意義を揺らがされ、ざわつき、怒りの感情が湧きあがったわけです。

感情を俯瞰し、あ、この観念いらんわ、と気づいたので、ポイっと捨てました。

感情は観念から生じるものなので、観念を手放せば、感情も消えます。

感情は、ともすると厄介なもののように感じられますが、自分がどのような観念に縛られているのかを示してくれるものであり、言いかえれば、自分を自由にするきっかけをくれるものでもあるので、実は、ありがたい存在なのです。

問題が問題であるために

怒りの感情と一体化した私にとって、依頼主のあり方は、大問題でした。

しかし、古い観念を手放した私は、新たな観念を選択する自由を得ました。

期待に応えなくても良い。
依頼主の要望を叶えなくても良い。
働いた分の対価をいただかなくても良い。

対極にあるものを選択しても良いのだと気づいた時、依頼主のあり方は、私にとってはもう問題ではありませんでした。

問題が問題であるためには、それを問題と捉える観念を持つ人が必要なのです。

言いかえれば、それを問題と捉える観念を手放してしまえば、問題は問題ではなくなるということです。

解決を目指さない

私は、どんな感情も、あって良いと思っています。

どんな感情も、持つことを恥じることはないし、抑え込む必要もないと思っています。

むしろ、感情に声を与えてあげて、その声に耳を傾けることでしか、自分の本音は自覚できないような気がします。

感情は観念によって生じるのだけれど、観念は悪者なわけではないし、何でもかんでも手放せば良いというものでもないと思うので、手放すも良し、手放さぬも良し、です。

ただ、感情に翻弄されることが苦しいのなら、その感情の元となっている観念を見つけて、手放してしまえば良い、それだけのことだと思っています。

他者とぶつかる時、ついつい相手を憎く思ってしまいがちだけれど、憎く思えた時に、これは観念の仕業だな!と気づくことができたら、相手を責めることも、自分を責めることもなくなるんじゃないだろうか。

問題と向き合う時は、解決を目指すよりも、無効化を目指したいものです。

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