自分を生きる
ひとり好きの起源
私は、ひとりで過ごすのが好きです。
もっと言えば、ひとりで過ごす時間がないと元気がなくなります。
だからといって、誰かと一緒に過ごすのが嫌いなわけでもなく、それはそれで楽しめるのですが、四六時中一緒なのはご勘弁、という感じです。
夫も同じようなタイプなので、とても助かっています。
夫は私より、色々なことを共有したいという想いが強いようなので、放っておいたらずっとひとりで過ごしてしまう私にとっては、共有する喜びを教えてくれるありがたい存在です。
一体いつ頃からひとりで過ごすのが好きなのだろう、と考えてみました。
一番古そうな記憶としては、隣の空き地の砂山を勝手に造形して滑り台をつくる遊びに、日が暮れるまでひとりで没頭していた記憶が思いあたります。
5歳くらいでしょうか。
2階の部屋の窓から瓦屋根にのぼって沈む夕陽を眺めたり、犬の散歩中に竹林を散策したりと、ひとりで過ごしていた時間の記憶は、今でも色鮮やかによみがえってきます。
今思えばかなり危険な遊び方をしていましたが、記憶が色鮮やかなところをみると、子供だった私は、その遊びを心底楽しんでいたのだろうと思います。
ひとり好きの強化
反対に、学校など集団生活を強いられていた頃の記憶は、ほぼないか、どんよりとしています。
子供でしたから、ちょっとしたことがキッカケで、心にフタをしてしまったせいなのかもしれません。
そんなどんよりとした記憶の中にありながらも、ちょっと特別に見える、一風変わった記憶があります。
高校生の頃の記憶です。
ある女友達から、その子がいつもつるんでいた子についての愚痴を聞かされていたときのことです。
私はなにげなく「そういうところもあるねー、私はあの子のこと嫌いじゃないけど」と言いました。
次の日から、彼女の様子が急によそよそしくなり避けられるようになったので、理由を聞いてみました。
「あのひとことで、信じてたのに、裏切られたと思った」と言われました。
私は、裏切ったつもりはありませんでした。
彼女の意見は彼女の意見、自分の意見は自分の意見、と思っていただけでした。
彼女との「違い」を知り、大きな衝撃を受けました。
同じ気持ち、同じ意見にならないと、仲良くなれないってことなのかな。
だからといって、嫌いじゃない子のことをムリやり嫌ってまで仲良くしたいわけでもなく。
「私は今でもあなたと仲良くしたいと思っているけどあなたがムリだと思うならしかたない、いつかまた仲良くできたら嬉しい」ということを手紙に書いて渡しました。
執着を手放し、自分の気持ちも、相手の気持ちも尊重する、ということをおぼえました。
彼女との仲は、完全に元通りにはならなかったけど、ほど良い距離感で付き合えるようになり、卒業を迎えました。
高校は共学でしたが、私は3年間女子だけのクラスで過ごしたため、たくさんの「女子の難しさ」を体験し、見聞きしました。
多くの子は、ひとりになりたくなくて、自分を偽り、必死でまわりに合わせて、疲れていました。
私は派閥には属していなかったため、派閥疲れした子たちから入れ替わり立ち替わり、派閥内の愚痴をこぼされるという、妙な立場にいました。
みんな大変そうだな。
ひとりって、楽だな。
こうして、私のひとり好きは強化されていきました。
他人を生きない
もしあのとき私が、彼女の中の「正解」を察知して、「わかるー、私もあの子嫌い」とか言ってたらどうなってたかなと、時々考えることがあります。
苦しいだろうな。
自分の本当の気持ちにフタをして、彼女の気持ちになりきろうとしたって、なれるわけがありません。
私は、彼女ではないからです。
私の言葉ひとつで、彼女がほんのいっとき満たされたとしても、彼女の心を本当に満たせるのは、彼女だけです。
満たされない心同士が、お互いを埋め合えば、それは、依存関係となります。
依存関係は、お互いがお互いの世界なので、その枠からはみだせず、狭い世界を不安とともに生きることを強いられます。
満たされた心同士が、お互いを尊重し合えたら、ひらけた世界でリラックスして生きられます。
人間関係において、わざわざ嫌われる必要もないですが、わざわざ好かれる必要もないのかな、と思います。
どうせ嫌われるなら、本心の自分で。
どうせ好かれるなら、本心の自分で。
本心の自分で生きて、そのうえで繋がれる人たちと、お互い楽しくリラックスして生きていけたら最高です。
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