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優雅な生活が最高の復讐である

このフレーズがこれほど似合う人を私は知らない。

・・・・実は、私は長く加藤和彦さんの音楽には触れるのがつらかった。

友人たちや私は、”トノバン”と呼んでいた。

もしかしたらその響きは、DONOVANに影響があるのかもしれませんが・・

DONOVAN/SUNSHINE SUPERMAN

1946年、スコットランドのグラスゴーに生まれたドノヴァンは14歳でギターを初め、学業と放浪の後、英国フォーク・シーンで歌い始めました。60年代後半からはサイケデリック・ムーブメントの流れを汲んで、サイケデリックでドリーミーな独特の作品を発表するように。65年という時代を反映した逆回転やシタールなどサイケデリックな雰囲気と、ドノヴァンならではの牧歌的でゆらゆらと幻想的なヴォーカルとが絶妙にバランスしたサウンドは、名付けてメルヘン・アシッド・フォーク!?

さて、トノバンです・
「帰ってきヨッパライ」というコミカルなフォークソング?
大ヒットにより、フレンチ・シェフへの道を捨て音楽家になったという噂を私も信じていました。というのも食事に度々誘われるようになって分かったのですが、まさにエベレスト級の「食」へのこだわりと百カラットのライフスタイルに触れ、あっという間にノックアウトされたのです。
下世話な実例で恐縮ですが、当時月給45000円の会社員だった私は、
二度ほどトノバンからディナーに誘われると、その月はもうスッカラカンになる暮らしでした・ま、そのお陰で自分らしい食へのスタイルを確立できたと感謝しております。で薄給だったその会社ですが、アメリカのカウンターカルチャー誌『 ROLING STONE ]』誌の日本語版を1973年に創刊し、月刊誌として発行する会社で、誘われた私は雑誌未経験にも関わらずプランニング・ディレクターという肩書きを与えられたことで日々右往左往していたのです。一方、その頃のトノバンは、あのロキシーミュージックに引けを取らないスタイリッシュなロックバンド・サディスティック・ミカバンドを率い、既にロンドンで絶大なる人気を博していました。当然私も強烈なファンでしたから、雑誌の仕事を通じて出会えたことは人生最大の幸運かもしれません。しかも何故か気に入られ、お宅にも伺うことも多く。あらゆるジャンルの会食にご一緒させていただきました。そうなんです。音楽家としての素晴らしさはもちろんですが、日々のトノバンの言動や佇まいから強い影響を受け、今思えば、当時私の人生の尊師的存在だったと思います。
その後、スネークマンショーの初アルバム「急いで口で吸え」では美輪明宏さんの持ち歌「メケ•メケ」をDrケスラー名義で参加してくれたことも誇らしい思い出です。それ以降はお会いする機会も減りましたが、サディスティック・ミカバンド再結成の折など楽屋で、お互いの好きなイギリスの洋服のブランド「PAUL HARNDEN」の話題で花が咲いたことなども忘れられない思い出です。
そして・・まさかの旅立ちに・・もうこれ以上は話せません・・
偶然とはいえ、この時期にあの「BOLLERO CALIFORNIA」に
再び遭遇するとは・・・まさに音楽が好きで良かったと思う瞬間です。

さて私の選曲はこの三曲・

「ジャスト・ア・シンフォニー」 
「愛のピエロ」 
「百合の時代」


トノバンの作曲と奥様の安井かずみさんの作詞の絶妙なコンビネーション。更に、トノバンが起用した、私も大好きな Nick De Caro Arranged 
語るまでもなく、至上の愛・極上の作品です。
今日、この曲を聴く歓びに、今日、生きていることの尊さに、
お二人の存在に感謝したい。

初代選曲家 桑原茂一
ps:
この選曲を中心に構成した番組を,
海賊船・Pirate Radio でアップロードします。
金曜夜11時 MIXCLOUD
今週かはたまた来週か・・・


https://www.mixcloud.com/moichikuwahara/



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