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しりあがり寿のスネークマンショー挿画発見!良くなかった思い出は良かったことまで台無しにする。

今更ながら驚愕する。あのしりあがり寿さんが挿画だったとは!!!
良くなかった思い出は良かったことまで台無しにする。のですね。
すっかり忘れてました。今、しりあがりさんの個展を光明院で開催中にもかかわらず・・うれしい記憶との再会なんです。こんな発見から私はこう思うのです。いい悪いなんかどうでもいい。できなかったことだけが事実だ。と・
出来なかった理由の原因がどんなに明快になろうと、納得できようと、
それがなんになろう!出来なかった事実を受け止めるしかない。
受け止める力が生きる力のレベルなのだと思う。出来なかったことを後悔する思いは生きる力のレベルが落ちている証拠だと・・・
つまり・出来なかったことの有象無象のすべては愚痴である。
愚痴は瞬時に燃やし灰にし海へ流せば蒸気となって天に登り消えていくはずだ。悟る・悟り・悟る時・生きてれば泉の如く愚痴は溢れてくるだろう
止めなくてもいい・流せばいい・燃やせばいい・
そのうち愚痴の方がめんどくさくなって出なくなる。
それは達観や悟りのようだが命が枯れているのかもしれない。
命は  DNA でもあるが 命は細菌の集合体ではないかと最近おもうように納豆納得なった。コロナであれノロであれピロリであれ数えきれない無数の菌・禁・金・・・まさに宇宙の仕組みそのものが人間の存在ではないか・・菌を探し・金を蓄え・禁を生み出す・・日々未知との遭遇をくりかえしくりかえしくりかえし・・・分かり分からず分かりゆく・いつまでも果てしなく・過去へ向かうことが未来へ向かうように・・・
「新しい発見」「新たな経験」それらを認識しているかどうかは意味をもたない・いつしかなぜか遭遇してしまうのだ・菌は悪魔であり神であり・行ったり来たりであり、清濁併せ呑むというように私は菌を愛したいと思うのです。人や生き物を愛でるように美しいものを愛でるように・・
私に棲みつく無限の菌を愛したい。昨日の悪魔菌は今日は神の菌かもしれない誰にもまだあすのことはわからない・・・
だから私は今日を生きる他に道はないと私にくりかえし言い聞かせている。


スネークマンショーとはうまいもの食うまでは決して眠らないことである。

-カツ丼、食うか?
「・・・・・・」
そうか。じゃあ、まず聞くがなクワバラ、「スネークマン・ショー」ってのは一体、なんなんだ?

「73年にアメリカのカウンターカルチャー誌『ローリングストーン』の日本語版が創刊されたんです」その雑誌は当時アメリカの若者の自由の象徴でした。創刊号の表紙がジョン・レノンの兵隊姿でしたから」

いきなり話を逸らすのか?ああ?

「自分は19歳で「キャッチボックス」っていう、今で言うカフェを西麻布でやってました。オーナーは足の不自由なアパレルメーカーの社長でした。
その後、自殺しましたが・・」

あぁー・・・未来、未成年じゃないか。

「その店に遊びにきていた貿易会社の社員が、自分の会社の社長の道楽息子がアメリカから帰ってきて、アメリカの「ローリングストーン」っていうカウンターカルチャ誌のライセンス取ってやりたいから協力してくれと誘われて、店を畳んで20歳ぐらいから準備を始めたんです。ちょうどベトナム戦争の真っ只中で、ロック音楽とは戦争反対のことで、ロックとドラッグカルチャーのリアルを伝えるメディアでした。」

-ほお~、ドラッ○か・・・・・・。

でも金を集めなきゃいけないという3年間で、
その当時、代官山にあった代理店の社長が気に入ってくれて、タイアップ広告の企画を1年半ぐらいかけてずーっとオーディオ・メーカーに売り込んでて、それがやっと決まってこれで安心して雑誌が出せる、なんて思ってたら、ロスで編集長が捕まったんですよ、もちろん雑誌は廃刊。
後に「プライベートマフィア草兵」という本で知ったんですが、彼は、“スマッグラー〈ドラッグの運び屋〉”(日本では数人しかいない)の1人だったんです。しかも、彼もその後、南の島で自殺するんです」

やっぱりドラッ〇の話か!この日本じゃそんなもの吸ってフラフラしてる若い奴は1人もいないんだぞっ!!

「そんなプロと3年間もパートナーだったなんて。一歩間違えれば自分も一緒に入ってました、きっと」

今からブチ込んでやってもいいんだぞ? ああ一っ?

「挫折している時に、「ローリングストーン」の時に仲良くなったエドウィンの当時の次長さんが、何かかやりたいことがあるんだろ?手伝うよ”と言ってくれて、その時に“ラジオがやりたいんです”って」

ーそこでラジオの登場ってわけか。

「小学校の頃、ナット・キング・コールと芸者ワルツが同時にかかってるような環境だったんです。邦問わずグシャグシャに音楽を聴いてたし、『9500万人のポピュラーリクエスト」の大ファで、毎週金曜日、それを聴くのが1週間の唯一の楽しみでしたから」
ラジオ 「最初はエドウィンの店頭BGMの制作ということで、デモテープ作りをやって、ウルフマン・ジャックのキャラクターを出せるカツヤさんという存在と、自分の中にあるラジオに対する思いみたいなものが一緒になってラジオの番組を作っていくことになるんですけど。確か最初の話から1年半くらいかかったような気がします。1977年に中波のラジオ大阪で、タイトルは『エドウィン・スネークマン・ショー』。確か、それがスタートです」

その時、お前は何歳だ?

「26歳です」

クワハラモイチ特別取り調べ調書第0-号其の二


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