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尾崎豊〜歿後30年によせて

1983年、高校2年生の12月のこと。友だちのうちに遊びに行ったら、友だちが「すげーやつが出てきたんじゃ!」と言ってレコードに針を落としてくれた。グロッケンシュピールの音が流れてきて、しばらくするとドラマティックな音像に変わった。〈落書きの教科書と外ばかり見てる俺〉という歌が流れてきた。聴いていると、なんだかゾクゾクとしてきた17の夜。

尾崎豊。1965年生まれ。僕よりもひとつ上だから当時高校3年生。日本のロックといえば、RCサクセションやアナーキーやARBやルースターズや佐野元春を聴いていたけど、そんななかで現れたひとつ上の(すなわち同世代の)ミュージシャン。なにより歌詞のメッセージ性とメロディーの美しさに惹かれた。伝えたくてたまらないもので溢れていた。

デビューアルバム『十七歳の地図』(1983.12.01)を買って、繰り返し聴いた。浜田省吾と活動をともにしていた町支寛二と、佐野元春と活動をともにしていた西本明がアレンジをしているのもいいなと思った。ブルース・スプリングスティーン風のアレンジ。街の音楽、同世代のことば、そして感覚。

1984年夏。尾崎豊は日比谷野外音楽堂〈アトミック・カフェ〉に出演、照明やぐらによじのぼり、そこからステージに飛び降りて骨を折りながらも、スタッフに抱えられて歌った。そんな記事を雑誌で見て、なんだかわからないけどすげーと思い、さらに興味を抱いた。

1985年1月21日、シングル「卒業」リリース。3月21日には2ndアルバム『回帰線』をリリース。どうしてもライヴを見たいと思った(1984年12月に岡山ではじめてのライヴがあったが、受験を控えていたため行けなかった)。おそらくこの頃、人生ではじめてファンクラブなるものに入会。大学に落ちて浪人することになり、予備校に通いはじめたこの年6月11日、岡山市民会館ではじめてライヴを見た。なんというかっこよさかと思った。ツアーファイナルが大阪球場であることを知って、友人を誘い、行くことにした(勉強しろよ)。バイトしてお金を貯めて(だから勉強しろって)、大阪球場に。このライヴは(のちに伝説となるんだけど)静かな「米軍キャンプ」で幕を開けた。12弦ギターのチューニングは狂い、弦は切れた。満員のスタジアムは固唾を飲んで尾崎豊を見守っていた。尾崎豊の歌声はよくとおり、3時間に及ぶライヴはいっときの隙もなく、素晴らしいパフォーマンスであった。おそらく、ここが僕の尾崎豊〈熱〉のピークであったといまになって思う。

その年、はやくも3枚目となるアルバム『壊れた扉から』をリリース(1985.11.28)。これは翌日が誕生日である尾崎豊が、20歳になる前に3枚のアルバムを出しておきたいと思ったことから。

1986年1月14日、前年11月の代々木オリンピックプールで行われたライヴの模様を収録した『早すぎる伝説』がフジテレビ系列でオンエア。全国放送ではなかったため(岡山でも放送がなかった)再放送の声が高くあがり、3月25日に全国で放送される(この番組のなかでだけ日清カップヌードルのCMで「シェリー」が使われていた)。このライヴのなかに有名な──

「時には過ちをおかしてしまうこともきっとあるだろう。だけど過ちにさえ自分のこのからだでぶつかって、ひとつひとつの物事を自分で解き明かしていかなければ、新しい第一歩は踏み出せないような気がするんだ。そのために傷つくことも多いかもしれない。そのために命を落としてしまうかもしれない。ただ、俺は新しい第一歩のためにこの命を賭ける。それが俺の生き方だ。笑いたいやつは笑え。信じるやつはついてこい。俺は真実を求め歩きつづけるお前らを愛している」

というMCが出てくる。夏の大阪球場ではそれほど感じなかった違和感を、ここらあたりから感じるようになった。わずか3ヶ月に満たないあいだなのに。この頃からすでに尾崎豊は〈尾崎豊〉であることに徹し、自分で自分を追い込んで疲弊していったんじゃなかろうか。

その年の5月に尾崎豊は単身ニューヨークにわたる。まるで1983年の佐野元春のように。

1985年にシオンがインディー盤『新宿の片隅で』をリリースし、それを聴き始めたことも、尾崎豊との距離が広がることにつながった。尾崎豊はあくまでもお坊ちゃんだった。

1987年12月、逮捕という報道があった。翌年、『夜のヒットスタジオ』で「太陽の破片」を歌っているすがたを見たけど、いたたまれない気持ちになった。



1992年4月、彼女の家でだらだらとテレビを見ていると、報道番組がはじまるとともにいきなり尾崎豊の映像が流れてきて、そのとき直感で思い至った。あ、尾崎豊は死んだんだなと。一時期、あれだけのめりこんだミュージシャンのあまりにも若すぎる死は、それなりにこたえた。

尾崎豊が〈尾崎豊〉であろうとすることに大いなる違和感をいだき、僕はついていけなくなったけど、それでもシンプルに、尾崎豊は優れたソングライターであり、優れた歌い手であった。それでいいんじゃないかと思う。みんなに愛され、歌い継がれる歌をたくさん残した。

1992年4月25日に尾崎豊はこの世からいなくなり、永遠の26歳となった。その15日後の5月10日、結果的に最後となったアルバム『放熱への証』がリリースされたんだけど、奇しくもその日は、Mr.Childrenのメジャーデビューの日でもあった──。

#尾崎豊  


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