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トレイシー・ソーン/安アパートのディスコクイーン

音楽好きの少女からひとりの女性として、夫婦の在り方、そして母へと自立する様が克明に描かれていて、キュートな文章に終始鳥肌が止まらなかった。二段構えで400ページ弱あるボリュームながら一気に読み終えてしまった。渦中にいながらも常に傍観者としてのトレイシーの視点は、音楽史の資料としても物語としてもしっかり読ませる内容だった。
前半は主に自身の日記を辿りながら記憶の糸を手繰り寄せ、今の自分が昔の自分を振り返る。薄れた記憶を自ら記した日記と、ライブの半券(よく残ってるなあ)を頼りに、まるで子供に「あの頃は…」と聞かせるようなある種の軽さが良かった。
長い付き合いのせいで、ベン・ワットとの出会いは記憶の上塗りで朧げだったりとひとりの人間としての不完全さを惜しげもなく記していて、大事な事も日々の泡のように弾けて飛んで行ってしまう。多分日記が無ければ思い出す事も難しいだろうし、自分であって自分でないようなそんな距離感が時間の流れを感じさせて、読んでいる方もノスタルジックな雰囲気に浸らせられた。
アイドルとしてのアストラッド・ジルベルトやダスティ・スプリングフィールドなどの時代を超えた憧れや、所々出てくるジャック・ケルアックの路上など文学少女としての自分が端々に現れている。ベン・ワットのレコード棚にはジョン・マーティンのソリッドエアーやディス・ヒートやロバート・ワイアットが並ぶ。彼がいかに一貫した趣向を持っているのが伺える場面だったと思う。
(ベンのソロでロバート・ワイアットとの共演や、ジョン・マーティンの影響を感じさせるヘンドラでのゴールデン・レイシオや、エデンでのディス・ヒートのチャールズ・ヘイワードの起用と言ったところ)

それにしても業を感じさせたのが、エデンで成功しながらもその後のキャリアを重ねる度にアメリカ進出と共にイギリスでの存在感が薄れていきながらも、トレイシーのソロが好きだという理由でマッシヴ・アタックに起用される事で図らずも起死回生を果たす流れ。マリン・ガールズやファーストソロといった自身の遺産に守られながらも、アメリカ進出の影響があった事でミッシングの大ヒットに繋がっていく様は中々スリリング。この歳で今更クラブミュージックに身を投じるの?といった戸惑いが赤裸々に語られていて、外からではわからない逡巡に当事者の悩みが刻まれていた。
この本には傲慢でエゴイスティックなアーティスト然とした人間ではなく、あくまでもひとりの女性として、そして人間としての視点が刻まれていてとにかくチャーミングなトレイシーという人となりが常に心をくすぐる。大きく見せようなんてこれっぽっちもなく、世界的なミュージシャンでありながらも挫折と後悔の繰り返しに悩むひとりの人間としての語り口にとにかく愛おしい感情を抱く。作り手ながらも好きなものに対していちファンの自分が最後まで貫かれていて、心の揺れと弱さを露呈するの様がこの本の魅力だと思う。
子供を持つことへの葛藤や、ベンの病気の末、EGTBを終わらせる事への決断と母になることの選択はそれまでの弱さと対照的に力強さを感じさせた。人生の選択を切り開く様はこの本のクライマックスだったと思う。フェミニズムとは単に女性としての性から自分を守る事ではなく、あるがままの自分を受け入れ選択する事なのではないかと考えさせられた。女性という自分は自分の思う人生を切り開きたいという選択をする事が全てではないかと。同性、異性との関わりではなくあくまでも自分らしく生きる事への執着。それこそが本来あるべきフェミニズムなのではないかと思う。選択する事を勝ち取る行為なのではないかと。
トレイシーはその末にひとりスタジオに籠り、再度ソロを作る事で母としての自分から自分を取り戻したんじゃないかなと。
コリーヌ・ベイリー・レイとお揃いのルブタンの靴についての件は女性同士の結託が描かれていて微笑ましい(本文ではルブティンとなってるけどルブタンでしょ!)

音楽の面ではフェアポート・コンヴェンションのデイヴ・ぺグとの邂逅や、アルバム「アンプリファイド・ハート」での元ペンタングルでベーシストのダニー・トンプソンや、ニック・ドレイクのリヴァーマンのアレンジャーだった(この記述は重要。ダニー・トンプソンもニック・ドレイクやジョン・マーティンのアルバムでダブルベースを弾いている)ハリー・ロビンソンの起用にブリティッシュフォークとの繋がりを確認できた。

↓ハリー・ロビンソンによるアレンジ

↓ダニー・トンプソンのモダンなベースプレイ

あと、1984年でポストパンクの季節が終わった事へ言及していてこの本と合わせてポストパンクジェネレーションは読んでおきたい一冊。廃刊でプレミアがついてるので手に入れるのは難しいけど。

トレイシーのこの本は我が娘ふたりに受け継いでいきたいと強く願う。

他にも感じたところはあるけれど、とにかく読んでもらえればいいと思うのでこれ以上は必要ないかなと。

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