見出し画像

ルイス・アルベルト・スピネッタの軌跡⑧/チャーリー・ガルシア、そしてフィト・パエスとの共演

・チャーリー・ガルシアとフィト・パエス

1984年末にスピネッタ・ハーデはメンバーの仲違いで解散。1985年と1986年はスピネッタはチャーリー・ガルシアとフィト・パエスの2人それぞれと共同プロジェクトに取り組んでいた。結果的にガルシアとのプロジェクトは頓挫したが、セッションからは名曲「Renzo por vos」が生まれることになった。1984年にガルシアとパエス、スピネッタの3人は、スピネッタとガルシアが共作した「Total interferencia」という曲ですでに顔を合わせていた。この曲はフィト・パエスがキーボードを担当したガルシアのソロアルバム「Piano bar」に収録されている。

スピネッタとガルシアの共演は暗礁に乗り上げたが、この時のセッションの一部の一部を使いアルバム「Prive」を完成させる。もう一方のスピネッタとパエスの共作は2枚組の大作として年末にリリースされる。すでにキャリアを積み重ねていたスピネッタと、新たな世代が出会うことになった。

・Luis Alberto Spinetta/Prive 1986

リリース:1986年2月
LADO A
Todos los temas compuestos Luis Alberto Spinetta, salvo el indicado.
Alfil, ella no cambia nada 4:11
Una sola cosa 3:29
Ropa violeta 4:49
Como un perro 4:50
Pobre amor, llámenlo 4:34
LADO B
No seas fanática 3:38
La mirada de Freud 3:01
Patas de rana 4:17
Ventiscas de marzo 3:18
La pelícana y el androide 4:02
Rezo por vos(Luis Alberto Spinetta/Charly García)  3:22

Luis Alberto Spinetta: guitarra Roland sintetizada, programación y voces.
León Gieco: armónica.
Osvaldo Fattoruso: percusión y coros.
Juan Carlos "Mono" Fontana: Grand Piano, Yamaha DX7 y Oberheim
Fito Páez: Grand Piano, Juno 106 y Yamaha DX7
Fabiana Cantilo: voces.
Isabel de Sebastián: voces.
Sergio Fernández: coros.
Andrés Calamaro: Yamaha DX7
Ulises Butrón: guitarra Stratocastrer, Synth Roland 707 y Yamaha DX7
Héctor Starc: guitarra Stratocaster.
Paul Dourge: bajo de 6 cuerdas Fanta.

Ficha técnica
Estudios: Moebio.
Control de los sonidos: Mariano López.
Sistema MIDI: Ramiro Fernández.
Control PCM: Carlos Piriz.
Asistente: Marcelo Delettieres.
Programación de Bajos Sequencer: Horacio Faruolo.
Equipamiento adicional: Carlos Dulitzky.
Cortado a Master Digital: JVC-U-Motic CR400 U/soné PCM 701 ES.
Sampling: AKAI.
Sonidos Sampleados: Aparcero (del vulgo), crash de fósforo Fragata (plasma radiante), Bichofeos auténticos de Castelar (19-10-85,5: 40 a.m.), Seq! (da sequendengue), relato de gol de Muñoz, Arranque de lavarropas Eslabón de Lujo, voz humana de Spinetta Ardilloide.
Programación de batas RX-11: Luis Alberto Spinetta.
Traducción: Luis Alberto Spinetta.

「この作品は、私にとって初めてのMIDI楽器を使ったレコーディングで、同期もMIDIを使って行いました。このアルバムはデジタルでミックスした初めてのレコードです。それは技術的に速いテンポを使うことを試みた数少ないレコードの一つです。」
ルイス・アルベルト・スピネッタ

アルゼンチン国内の民主主義が確立されてから三年が経とうとしていた。新しい時代の音楽はアルゼンチンで作られたロックに魅入られた若者たちに希望をもたらしていた。ロック・ナシオナル黎明期から活動する世代と、フォークロア紛争/マルビナス戦争から民主主義の回復に至る時代の最中にいた若いロック第二世代が奏でる音はより広い支持層を獲得していった。
スピネッタ・ハーデ解散後、スピネッタ/ガルシアのプロジェクトは1985年に行われ『Cómo conseguir chicas』(このタイトルは1989年に流用された)という共同のアルバムを制作しようとしていた。しかし、このコラボレーションは2人の間で議論が生まれ、個人的な軋轢を生乱してしまい、それが原因で仲違いしてしまった事で、アルバム制作は頓挫してしまった。このプロジェクトで唯一完成したのが「Renzo por vos」だった。スピネッタは「Privé」に、ガルシアは1987年の「Parte de la religión」にそれぞれ収録されることになった。

この曲の共演はスタジオライブの動画が残されている。ガルシアの足元には愛用していたTR-808が見える。

破局の理由は複数あり、まずスピネッタとチャーリー・ガルシアの性格の違いがあった。スピネッタは家族の要望に応じてスケジュールを調整しなければならず、アルバム制作にのみ集中してほしいと考えていた。一方、ガルシアはスケジュールの制約がなく、同時に複数のプロジェクトを進めていた。
もう一つがガルシアがテレビ番組を録画していたときにビデオデッキがショートしたことが原因だった。火事の後の口論で、ガルシアはスピネッタの偏執的な態度に腹を立てて、灰皿を投げつけるほどだった。

スピネッタ:非常に偏執的な気持ちになりました。彼に会って、何十もの悪いことが起こっているのに。
ガルシア:そして、私は彼に「偏執的になるな、どうやってこれを処理するつもりだ」と言いました。そして、実際には爆発してしまった。それが私たちを苦しめ、とても怖かったのです。

「一緒に仕事をしている間、私はとても必要とされていると感じました。彼が私を必要としているとき、私はそこにいようとしましたが、その後私は彼から拒絶されたと感じて、とても傷つきました.... 。まるで彼だけがファンからの崇拝の役割を果たしているかのように感じて、彼の歌で一緒に乱痴気騒ぎができるということを彼に理解してもらう方法を見つけることができませんでした...。私はスイ・フェネリスの音楽が好きではありませんでした...。しかし「Tango en segunda」(スイ・フェネリスの3枚目のアルバム「Instituciones」に収録)と、彼のバンド、ラ・マキナ・デ・アセル・パハロス(La Máquina de Hacer Pájaros)とセル・ヒランの音に触れた事で私は彼に近づき、今では彼はどこにいても真のモンスターだと思います...。「Pobre amor, llámenlo」は彼に対して感じた大きな愛情です。」
ルイス・アルベルト・スピネッタ

「誤解のないようにいえば、悪い雰囲気は全くありませんでした。ルイスは私のアイドルであり、今でも彼は私のアイドルです。何があったかというと、私たちは非常にアイドルらしいアイドルな二人だったので、一緒にいると違和感があったという事です。」
チャーリー・ガルシア

チャーリー・ガルシアと始めたプロジェクトが失敗に終わり、それ以前にも1982年にガルシアとペドロ・アスナールのプロジェクトも完成せずに終わってしまった過去があった。(ガルシアのアルバム「Yendo de la cama al living room」に、3人で作曲・演奏した「Peluca telefónica」というユーモラスな曲が残っている)。

2人のアルバム名となるはずだった「Cómo conseguir chicas」は、後にガルシアは1989年に自分のアルバムに使用された。
スピネッタは、ガルシアとの共作のために作られた素材の一部を使って、1985年11月から12月にかけてソロアルバムを録音。1986年2月にアルバム「Privé」がリリースされた。「Mondo di cromo」から導入したシンセサウンドをさらに深化させ、非常にハイテンポな曲が多く収録されている。ドラマーは全てドラムマシンに置き換わり、スピネッタがプログラムしたヤマハのリズムマシンRX-11が使用された(最近ではペドロ・マルチンスがアルバム「Vox」の冒頭で使用していた)。

「私はオーバーハイムDMXとヤマハRX-11の両方を持っています。R-11のボイスジェネレーターの忠実さは、オーバーハイムの音色がはるかに優れているにもかかわらず(非常に低い音でチューニングすると、まるでもっと大きな音が出てくる)、RX-11の操作性は恐るべきものがあります。カウントして混ぜることができます。またシンバルやドラムの音が印象的なのはもちろんですが、コンピューター のようなデザインもとても気に入っています。このマシン(RX-I1)はマスターとして使いました。光が差し込む家のキッチンで、ギターを持たずに座って、記憶を頼りに、リズムのパターンを入力して、変えたり試したりしながら、頭の中で考えていました。」
ルイス・アルベルト・スピネッタ

ベースは半分以上の曲でスピネッタとホラシオ "Chofi" ファルオーロによってCASIO CZ 5000のシーケンサーでプログラムされた。

ゲストミュージシャンとしてレオン・フィエコ、フィト・パエス、アンドレス・カラマーロ、モノ・フォンタナ、ウリセス・ブトロン、そしてファビアナ・カンティーロとイザベル・デ・セバスチアンによる女性コーラスが参加している。
当時、スピネッタはインタビューで、ソロかグループかという選択肢が頭をよぎったと語っている。

「今のところ、私のソロ演奏はワイルドカードのようなもので、使いたいときに使います。安心感はありますが、度が過ぎると飽きてしまいます。だからこそ、グループが必要なのです。人は私一人を見たいのであって、私(がやりたい事)を見たいわけではないのかもしれません。」
ルイス・アルベルト・スピネッタ

「Privé」のレコーディング中、映像作家のパブロ・ペレルは、アルバム制作のために行われたリハーサルやレコーディングなどのシーンを記録したドキュメンタリー「Spinetta el video」を制作した。

・Luis Alberto Spinetta y Fito Páez/La la la 1986

リリース:1986年11月
LADO A
Folis Verghet (Páez) 3:39
Instant-táneas (Páez) 5:37
Tengo un mono (Spinetta) 5:15
Retrato de bambis (Franzetti) 1:34
Asilo en tu corazón (Spinetta) 5:35
LADO B
Dejaste ver tu corazón (Páez) 5:16
Sólo la la la (Páez) 1:23
Gricel (Mores - Contursi) 4:31
Serpiente de gas (Spinetta) 4:29
Todos estos años de gente (Spinetta) 5:19
LADO C
Carta para mi desde el 2086 (Páez) 5:07
Jabalíes conejines (Spinetta) 2:31
Parte del aire (Páez) 5:05
Cuando el arte ataque (Spinetta) 2:23
Pequeño ángel (Spinetta) 2:36
LADO D
Arrecife (Spinetta) 4:53
Estoy atiborrado con tu amor (Spinetta) 4:49
Un niño nace (Spinetta) 4:11
Woycek (Páez) 3:40
Hay otra canción (Páez - Spinetta) 5:11

Luis Alberto Spinetta: guitarra, guitarra acústica, guitarra sintetizada Roland y voz.
voz en 1,2,3,4,5,7,8,9,10,11,12,14,15,16,17,18
guitarra Roland en 10,19
guitarra acústica en 12,16
guitarra eléctrica en 1,2,3,5,6,7,8,9,10
Fito Páez: teclados, guitarra acústica y voz
voz en 1,2,3,5,6,7,9,10,11,13,16,18
guitarra acústica en 7
teclados en 1,2,3,5,6,8,9,10,11,12,13,14,15,16,17,18,19
Fabiana Cantilo: Voz en 1 y Arreglo de voces y voz en 2.
Carlos Franzetti: Arreglo de cuerdas en 5, 6, 13, 15, 20.
Daniel Wirzt: Batería en 1, 2, 5, 11, 14, 15.
Fabián Gallardo: Arreglo de voces y voz en 2.
Fabián Llonch: Bajo en 1 y 11.
Gustavo Giles: Contrabajo en 6 y 17.
Lucio Mazaira: Batería en 6 y 17 y Arito y Platos en 18.
Carlos Alberto Machi Rufino: Bajo en 2, 5, 14 y 20 y coros en 19.
"Pino" Marrone : solo en tema 9

Grabación: Estudios ION, agosto y octubre de 1986.
Fotografía: Eduardo Martí.
Técnicos de Grabación: Jorge Da Silva, Osvaldo Acedo y "Pucho Alonso".
Técnico de Mezcla: Jorge Da Silva.
AyR EMI: Adrián Posse.
Producción de Estudio: Luis Alberto Spinetta y Fito Páez.

このコラボアルバムは、フィト・パエスと契約していたレコード会社EMIが、パエスのソロ活動を優先させたいということでボイコットしてきた。

「それらに反対する事で、逆にレコーディングができたのです。」
ルイス・アルベルト・スピネッタ

この頃スピネッタは36歳で、それまでに19枚のアルバムをリリースしていた。「Mondo di cromo」以降、シンセとドラムマシーンを中心としたサウンドへの移行が顕著になった。前作「Prive」でキーボードで参加していたフィト・パエスはこの時まだ23歳だった。1982年にトロヴァ・ロザリーナでロック・ナシオナルのシーンに登場した彼は、最初から存在が際立っていた。フアン・カルロス・バリエットやチャーリー・ガルシアの歴史的なアルバムに参加した後、2枚のソロアルバムをリリースして活動に乗り出したが、前年の1985年にリリースされた2枚目のアルバム「Giros」は、ロック・ナシオナルの歴史における名盤のひとつとなることが期待されていた。

アルバムの原動力となったのはフィト・パエスで、彼はアイデアを持ち込み、スピネッタのために「Dejaste ver tu corazón」という曲を作曲した。それがレコード制作の最初のきっかけとなり、共同プロデュースすることになった。
全20曲で構成されており、2枚のディスクに等分に収録された。そのうち10曲はスピネッタが、7曲はパエスが、1曲はマリアーノ・モレスとコンツルシのクラシックタンゴ、1曲はカルロス・フランゼッティ、そしてアルバムの最後を飾る残りの1曲(「Hay otra canción」)は、フィトとスピネッタの共作となっている。フィト・パエスが単独で演奏・歌唱している「Parte del aire」を除き、すべての曲が2人によってアレンジされ一緒に演奏された。

パエスによる 「Parte del aire 」は、このアルバムの崇高なハイライトのひとつで、父親が亡くなった翌日に作曲した曲である。父親が「空気」になって、パエスが生後数ヶ月のときに亡くなった母親と再開することを想像していた。この曲はスピネッタの強い要望により、パエスが一人で歌い演奏している。

「スピネッタがこの曲を聴いて感動していたのを覚えています。ファビアナと一緒に住んでいた家で、彼が泣き出したんです。彼は私に「お前はろくでなしだ、どうしてそんなことができるんだ」と言った。彼はこの曲をアルバムの一部にしたいと思っていたし、本当に好きな曲だった。」
フ「'La la la'は、スピネッタの人生の中の小さなエピソードで、私の人生にとっては大きな部分を占めています。私が音楽に接近したきっかけの恩人と一緒にアルバムを録音するのはとても不思議なことでした。たくさんの映画を見て、話をして、タバコを吸って、お酒を飲んで、共に音楽を作った。このアルバムは、業界にとって珍しい友情、作品の奇妙さから生まれたものです。その奇妙さの中に、ルイス・アルベルト・スピネッタの「分類不可能性」が振動しているのではないかと...。
スピネッタに私が素材を持っていき、彼はピアノの(和音の)転回を求められ、ピアノ用に渡されたギターのハーモニーの形は珍しいものでした....。そこで彼のコードの組み合わせ方が変わっていることを知りました。ビートルズやストーンズを聴いていた耳からすると......スピネッタの和音は違っていました。GメジャーはGメジャーではなく違うものでした。”Serpiente de gas "や "Atiborrado "のハーモニーは音楽のレッスンでした。」
フィト・パエス

「デバイス(シンセやドラムマシーン)を使うという意味では非テクノロジー的なアルバムです。アルバムの2曲に私がプログラムしたドラムが2台あるだけで、残りの大半の曲は生演奏です。「Tengo un mono」と「Grisel」では、キーボードでドラムやパーカッションを演奏しています。」
ルイス・アルベルト・スピネッタ

「6/8拍子...それがここにはなかった。ロックシーンからは離れていたので...。私は国内の内陸部でフォークロアやタンゴに触れてきてそのレガシーを備えています...。スピネッタでさえも、ジャズではない、ワルツの3/4拍子でもない、6/8拍子のパルスを使ったフォークロアにリンクした3連のリズムを使って、フォークロアと接触しています。」
フィト・パエス

アルバムのジャケットは、フィト・パエスの右半分の顔とスピネッタの左半分の顔を合体させ、両手で包み込むような一枚の顔を作り出している。裏表紙も顔を半分ずつ組み合わせたものだが、顔に手を添えず反転させ、右半分がスピネッタの顔、左半分がフィト・パエスの顔となっている。この写真の作者はインヴィシブレのジャケットを手がけていたエドゥアルド・"ディラン"・マルティである。

「フィト・パエスとのデュエットアルバム『La la la』の写真のアイデアは、スピネッタのものだったそうです。パンパ・アンド・フォレストにある、フィトがファビアナ・カンティーロと一緒に借りていた家で、一晩だけ彼らを連れて行きました。全体のプロセスは機械的で、顔を一つに混ぜるというアイデアが完璧にできました」。
エドゥアルド・"ディラン"・マルティ

アルバムの録音を終えた直後の1986年11月7日。幼い頃に母を亡くしたフィト・パエスにとっての育ての母親だった祖母(デルマ・ズレマ・ラミレス・デ・パエス)と大叔母(ホセファ・パエス)が、ロサリオの自宅で惨殺されるという悲劇に見舞われる。

1987年2月、スピネッタはブエノスアイレスのベロドロームで1万人を動員した無料コンサートを行い、その直後、5月にヴィラ・ゲゼルで撮影されたフェルナンド・スピナー監督の短編映画『Balada para un Kaiser Carabela』に俳優デビューし、映画の音楽も担当した。

・Luis Alberto Spinetta/Téster de violencia 1988

リリース:1988年
LADO A
Lejísimo (4:42)
Siempre en la pared (3:22)
Al ver verás (3:19)
La luz de la manzana (6:17)
El marcapiel - (Spinetta-Roberto Mouro) (4:25)
LADO B
El mono tremendo - (Pechugo) (2:30)
Organismo en el aire (6:46)
Tres llaves (3:55)
La bengala perdida (6:07)
Alcanfor (2:53)
Parlante (Bonus track: edición en CD) (3:16)

Luis Alberto Spinetta: Guitarras, programación y voz.
Carlos Alberto "Machi" Rufino: Bajo.
Juan Carlos "Mono" Fontana: Teclados.
Guillermo Arrom: Guitarras.
Jota Morelli: Batería.

フィト・パエスの祖母と大叔母が殺害されるという事件が起きた後、パエスが1987年にアルバム「Ciudad de pobres corazones」発表する一方、スピネッタはアルバム「Téster de violencia(暴力のテスター)」で自分が感じた痛みを表現した。スピネッタは「La la la」で作った曲が、パエズの祖母たちへの大虐殺と結び付けられているように感じていた。

「正直に言うと、その時の出来事をアルバムに収録されている暴力シーンと結びつけて考えていました。そして、「Tengo un mono」のように、「Tengo un termo de merthiolate(魔法瓶に入ったチメロサール(防腐剤)を持っている) / tengo un trapo con obsidianas(ぼろきれに入った黒曜石を持っている)」や「soy la araña, la que cura la enfermedad(私は蜘蛛、病気を治す人)」というような歌詞を書いたことを後悔しました。私は、自分が作った最も暴力的なものを、フィトに捧げて後悔した。私は、彼がこの歌詞を読んだとき「何て野蛮で、感動的なんだろう」と思うだろうと思いました。しかし祖母の悲劇が起こり、その出来事の生みの親のように感じるようになりました。作品そのものの暴力によって、すべてが解き放たれたかのように。被害妄想だとは思いますが、私はそう感じてずいぶん苦しみました。」
ルイス・アルベルト・スピネッタ

「私の母であるジュリアに」と、このアルバムは捧げられている。

また、アルゼンチンの歴史的背景も、スピネッタの感情に影響を与えた。1983年末、アルゼンチン社会は民主主義を取り戻し、最後の独裁政権下で人道に対する罪を犯した軍人を裁くフンタス裁判(1985年)が開かれた。しかし1986年に議会がいわゆる不敬罪法を可決し、1988年1月にはアルド・リコが率いるカラピンタダス軍(アルゼンチン陸軍の兵士のグループによって1987年から1990年にかけて起こった4回の軍事騒動)の反乱が起きたことでこの環境は曇り始めた。すでに影響が出始めていた国の経済状況の悪化、そして「Due Obedience」と「Punto Final」の二つの法律が成立したこともスピネッタに影響を及ぼしていた。
実際スピネッタは3月にコルドバのシャトー・カレラスでコンサートを行い、「No seas fanática(狂信者になるな)」の歌詞を「No seas milico, No seas Rico(ミリコになるな、リコになるな)」と変えて、反乱への拒絶を表明している。

Punto Final プント・フィナル法
「国家再編成過程で起きた、不法拘留、レイプ、拷問、加重殺人または殺人を伴う強制失踪という複合犯罪を犯した刑事責任者として告発された者のうち、「本法の公布日から60日が経過する前」に証言を求められなかった者に対する刑事訴訟の時効を定めたものである。1986年12月24日にラウル・アルフォンシン大統領によって公布されました。1983年の選挙期間中、急進派市民連合の候補者であるラウル・アルフォンシンは、アルゼンチンにおける国家テロリズムの犯罪を不問に付すことはできないと約束していた。」

Due Obedience 正当な服従の法(Ley de obediencia debida)
「この法律は1987年6月4日に成立した。この法律は、軍隊、警察、刑務局、その他の治安機関の一般職員を含むすべての将校とその部下は、上司(この場合、すでにフンタス裁判で裁かれた軍事政権のトップ)の命令に従うという正当な服従から行動していたため、独裁政権下で犯した犯罪によって法的に処罰されることはないと、反対の証拠を認めることなく仮定しなければならないことを定めている。
この法律は、軍部の不満を抑えるために、完全停止法の1年後に成立した。この法律は、大佐以下の軍人の犯罪責任を事実上免除するもので、強制失踪、不法拘留、拷問、殺人などが含まれていた。条文は7つと短く、そのうちの2つ目には例外規定が含まれている(強姦、未成年者の失踪や身分証明書の偽造、不動産の大規模な横領などの場合には適用されない)。」

スピネッタは1987年にこのアルバムをリリースする予定だったが、相次ぐ事故や個人的な困難のために延期し、1988年4月にレコーディングを開始した。延期によって彼は素材を整理しコンセプトを練ることができた。

「このタイトルはフィトとの友情から来ているんだ。多かれ少なかれ、人間は皆暴力のテスターであるという結論に達しました。私たちは、暴力が現れる領域であると同時にその暴力の尺度でもあるのです。」
ルイス・アルベルト・スピネッタ

スピネッタは、自分を取り巻く暴力のテストとして自分の行動例として、ラ・ファルダ音楽祭でミュージシャンが瓶や鈍器で激しく襲われたエピソードを紹介した。

「非常に激しい雰囲気の中で行われたラ・ファルダ・フェスティバルに参加しました。人はフェンスでステージと隔てられていた。こんなの見たことないよ。ライオンとローマ人だった。そんな中、フィト・パエスがプレーに出てきたので、私は彼に「ロコ、君は暴力のテスターだね」と言うと、彼は「そうだよ、みんなそうなんだ」と答えてくれた。」
ルイス・アルベルト・スピネッタ

スピネッタは、暴力というテーマに対する純粋に道徳的なアプローチを超えて、その暴力が人々の身体の中にどのように存在しているのか、また社会的な暴力が自分を通過して、その暴力を目に見える形にする道具に変えられていると自分自身が感じていることを表現しようとした。フアン・カルロス・ディエスとの会話の中で、スピネッタはこの概念を拡大し「暴力」という概念を、生まれ、生き、死ぬという実存的な事実そのものにまで拡大した。「身体と魂が分離可能であるという考え」を先送りすることを提案し、身体を「液体が一時的に通過する容器であり、その液体を失えば死ぬことになる」というビジョンを展開しています。スピネッタにとって、人々は「巨大なバイブレーションテスター」として反応すると考えた。

「人間の持つテクノロジーは、爆弾で殺し合いたいというような道徳的なパラドックスを持つことだけでなく、自分自身を測定する唯一の器具であり、自分自身を測定する装置でもあります。彼はデータであると同時に、データの組織でもある。彼はテスターであり、テスターのデータである。」
ルイス・アルベルト・スピネッタ

スピネッタは、ドゥルーズの本を読み、フーコーの『監獄の誕生 』の「El cuerpo de los condenados(囚われの身の上)」の章に影響を受け、人々の身体に焦点を当てている。「Téster de violencia」の「身体」というテーマは、長い間魂に向かって歌い続け、かつて「Alma de diamante(ダイアモンドの魂)」と名付けたこともあるスピネッタのような人物にとっては新しい切り口だった。この変化は、アントニン・アルトー(肉体は魂の牢獄である)の作品を熱心に読んでいたのが、フーコー(魂は肉体の牢獄である)のテキストを読むように変化した事と対称的であったと言える。スピネッタは「武器や暴力を使わない」過激さを求めたが、同時に、原理主義的なタイプの軍事クーデターが起きれば、「民主主義の国、法の支配、人権」を守るために「死ぬまで戦わなければならない」と語っている。

スピネッタは、このアルバムの曲を「caídas al cuerpo(体に落ちる)」と「evaporaciones(蒸発)」という2つの主要なテーマグループに分類したと言っていた。「caídas al cuerpo(体に落ちる)」グループには「Tres llaves」「La bengala perdida」、「evaporaciones(蒸発)」グループには「Lejísimo」「Organismo en el aire」「El mono tremendo」「La luz de la manzana」「Siempre en la pared」が含まれていた。

アルバムのメンバーはスピネッタ(ギター、ボーカル、プログラミング)、カルロス・アルベルト・"マチ"・ルフィーノ(ベース)、フアン・カルロス・"モノ"・フォンタナ(キーボード)、ギジェルモ・アロム(リードギター)、ジョタ・モレッリ(ドラム)で、このアルバムで特に重要な役割を果たしているのが、すべてのキーボード・アレンジメントを手がけたモノ・フォンタナであった。

アルバムのジャケットは体のコラージュで、その表側にはスピネッタの頭の写真が赤い照明の中で中央に添えられている。赤い色、他の部分のない頭部、顔のジェスチャーは、血まみれの死のイメージを伝え、キリスト教のイメージとの明らかな類似性を持つ生贄のイメージを示唆している。主なアイデアはスピネッタのもので、コラージュは弟のグスタボ・スピネッタがデザインし、写真はディラン・マルティによって撮影された。スピネッタが選んだ本や雑誌から切り取られた白黒の人物がコラージュされていて、イメージの中には、エセイザの大虐殺、ボクサーの戦い、焼身自殺をする男、食べ物を詰まらせる男、セックスをする女性と男性、刑務所の鉄格子から覗く囚人、猫のシルベストル、ハイヒールを履いた女性の足、手のX線写真、警官、叫ぶ子供、漫画のキャラクター、あくびをする男、ヘリコプターに乗った兵士、フランケンシュタインの怪物、飢えた子供、手、足、尻、骨盤などがコラージュされている。グスタボ・スピネッタは、ジャケットの全体的なデザインをする際に、ダダイズムやシュールレアリズムの影響を受け、狂気や「幻視状態」と結びつけて描いていることや、フーコーが兄に与えた影響について言及している。

「兄はフーコーのようなフランスの哲学者の作品に夢中になっていました。人間の両極端な部分が一方と他方に現れるのです。人間の経験を最も異常なものにするという極端なものから、もう一つの極端なもの、つまり、最も正義であると主張する者、法律を適用する者がいて、実際には、最初の者と同じように獣のようになっているというものです。日常生活の中にある暗黙の暴力をすべて見せてしまおうという、ちょっとしたアイデアでした。」
グスタボ・スピネッタ

「壮大な表現の根底にある深い無知......そこにあるのは肉塊のようなもの......誰もが自分自身にしかなれない......違うだろうか?」
ルイス・アルベルト・スピネッタ

スピネッタはファンだったロベルト・バジーレのサッカー場での殺人事件を題材にした「La bengala perdida」という曲は、このアルバムのハイライトであり、1980年代の最高の曲、そしてアルゼンチンのシーンの中で最も重要な曲のひとつとされている。

中には死体が残されている。
炎が彼に当たったのだ。
ゴールと書かれているところ。
失われたフレア

スピネッタは当初、マナルが1970年代初頭に演奏したハビエル・マルティネスの「Para ser un hombre más」をアルバムに収録する予定だった。スピネッタが自分のバンドで演奏したバージョンは、1988年12月にATCガーデンで行われたコンサートで聴くことができる。

このアルバムは成功を収め、その年のベストアルバムに選ばれた。このアルバムが広く受け入れられたことはスピネッタを驚かせた。彼はそのメロディと歌詞の複雑さから、このアルバムは大規模な受け入れを得られないだろうと考えていた。

「わからないけど、ある意味、私はもうティーンエイジャーに向けたものではないと思う。リズムに乗ろうとするより、内なるリズムを探そうとしています。なぜなら、それを目指さなければ、テスターを受け入れられないからです。別にいいんだけど、普通の和音のパッセージでは満足できない...。」
ルイス・アルベルト・スピネッタ、アルバム

・ Luis Alberto Spinetta/Don Lucero 1989

リリース:1989年11月20日
LADO A
Oboi 5:10 (letra: Roberto Mouro; música: Luis A. Spinetta)
Fina ropa blanca 5:15 (Spinetta y Faruolo)
Wendolin 4:20
La melodía es en tu alma 6:25
LADO B
Divino presagio 4:05
Un sitio es un sitio 4:39
Es la medianoche 3:18
Un gran doblez 5:27
Cielo invertido 6:12
Todos los temas fueron compuestos exclusivamente por Luis Alberto Spinetta, excepto los dos primeros, compuestos en coautoría.

Guillermo Arrom: guitarra.
Horacio "Chofi" Faruolo: teclados.
Juan Carlos Mono Fontana: teclados.
Didi Gutman: teclados.
Javier Malosetti: bajo.
Jota Morelli: batería.
Luis Alberto Spinetta: guitarras, voces y programación.

Spinetta: arte digital (con una Commodore Amiga).
Claudio Clota Ponieman: diseño gráfico.

前作「Téster de violencia」は予想外の成功を収め、その年のベストアルバムに選ばれた。世界もアルゼンチンも激動の時代を迎えていた。この年の11月、ベルリンの壁が崩壊し、1947年に始まった冷戦は終わりを告げ、2年後にはソ連が解体された。こうして、新自由主義的なルールが一般化し、グローバリゼーションと呼ばれる歴史的な時代の始まりを告げた。
この年、アルゼンチンでは1951年以来の民主主義政権更新のための選挙が行われ、カルロス・メネムが大統領候補として立候補したことで正統派政党が勝利した。
アルゼンチンの歴史上初めて、民主的な大統領が他党の民主的な大統領に権力を渡したのである。スピネッタは、敗北した「急進連合」のエドゥアルド・アンゲロス候補の支援のために選挙運動に積極的に参加していた。しかし3月にはハイパーインフレが発生し、国民のほとんどが貧困に陥っていた一方で、1970年代から1980年代に人道に対する罪を犯した犯罪者たちが、次々と不処罰法によって釈放されていた。

身体と暴力についてのコンセプトアルバム「Téster de violencia」の後、スピネッタは真反対のアルバムを作ろうとした。「Téster de violencia」が「考えるためのアルバム」なら、「Don Lucero」は「感じるためのアルバム」であった。

「思考についてではなく感覚や感情に焦点を当てています。物語がないのです。語りはなくイメージや印象が先行する。「Téster de violencia」のように説明が長く続くようなものではない。このアルバムでは多くの歌詞が何も語っていません。前作のように、あらかじめノートに書き留めていた歌詞が存在していたわけではなく、演奏から浮かび上がってくる事で芽が出てくる...。肉体の話をした後、次は移り気で、無問題なものが次に来るものです。」
ルイス・アルベルト・スピネッタ

スピネッタが自宅に設けたスタジオで録音した最初のアルバムで、当初そのスタジオは「Cintacalma」と呼ばれたが、後に「La Diosa Salvaje(スピネッタ・ハーデの曲名)」と呼ばれるようになり、レコード会社の矛盾した行動に対応してスタジオを整えていった。

このタイトルは、音楽的な意味での電気と光の両方に関係しており、後者はスピネットの作品の中心的なシンボルとなっている。スピネッタは当初、大ブエノスアイレスで電力サービスを提供していた国営電力会社Segbaの名前をアルバムのタイトルにしようと考えていたが、結果的に光や電気を生み出す力や「光を与える贈り物」を意味する「ドン・ルセロ」を選んだ。

「私の子供たちの誕生は、まさに光の贈り物のような瞬間でした。」
ルイス・アルベルト・スピネッタ

ジャケットのコンピューターグラフィックスはスピネッタが、1987年に発売されたコモドール・アミーガ500で描いたもので、黒い背景に青みがかった色で光る惑星が人間のようになったような人型の顔が描かれている。スピネッタはEscuela de Bellas Artes(美術学校)でドローイングとペインティングを学び、毎日のように絵を描いていた。アルバムの裏ジャケットは、表紙の絵のバリエーションを並べたもの。インナースリーブにはディラン・マルティが撮影したミュージシャンの写真が掲載されている。

本作の参加メンバーはスピネッタ(ギター、ボーカル、プログラミング)、フアン・カルロス・"モノ"・フォンタナ(キーボード)、オラシオ・"チョーフィ"・ファルオロ(キーボード)、ディディ・グットマン(キーボード)、ギジェルモ・アロム(リードギター)、ハビエル・マロセッティ(ベース)、ジョタ・モレリ(ドラム)。

冒頭の「Oboi」はロベルト・モウロによる歌詞で、英語の「Boy」を文字った造語。スピネッタによると、この曲では「子供の精神が擬人化されている」という。
2曲目の「Fina ropa blanca」は、アルバムのハイライトの一つであり、その年のベストソングに選ばれた。「Es la medianoche」は、ディラン・マルティが監督したミュージックビデオが作成されている。

1989年12月8日、9日にはオブラス・スタジアムでアルバムのライブが行われた。

「Don lucero」はその後のスピネッタの作品に通じるメロウな音楽性が前面に出たアルバムで、メロディを崩す歌い方の多かったスピネッタが明瞭なメロディを紡いでいる。それまでスピネッタが抱えていた歌詞の意味性から解放され、ポップさも獲得した名盤であり新たなスタイルの礎となった。言及はされていないが、ティアーズ・フォー・フィアーズやプリファブ・スプラウトにも通じるイギリスのある種のAOR的音楽性と、それまで培ってきたブルージーさも相まって晩年の数々の名盤に通じるスタイルの芽が現れた一枚と言える。ジャズロック/フュージョンからスタートしニューウェーブの洗礼を受けた80年代の中での到達点と言える。しかし、スピネッタの進化はこの後もさらに続くことになる。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?