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クリムトの次に観るべきもの/渡邊庄三郎が生み出した新版画

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吉田博、小原古邨らを輩出した版元・渡邊庄三郎を中心とした新版画の展示を観てきた。大田区立郷土博物館の一角を使って、25点ほどの作品が並んでいた。近年人気の高まっている吉田博や小原古邨らの作品は無かったものの、版元・渡邊木版画舗の成り立ちがよくわかる展示だった。
(以下グレーの文は会場の説明文からの引用)

・はじめに
大田区を代表する版画家・川瀬巴水の抒情あふれる風景版画の大半は、版元の渡邊庄三郎のもとから出版されました。巴水は1917年の塩原三部作から新版画の製作を始めますが、それ以前より、庄三郎は日本画家や外国人絵師たちと新版画の製作に打ち込んできました。
庄三郎は1906年、浮世絵商の小林文七商店から独立し、浜町で浮世絵版画を商う尚美堂を開店します。そして1908年に京橋五郎兵衛町11番地に移転し、浮世絵版画の販売だけでなく、複製版画、・新作版画の出版を始めます。
それまでの伝統木版画は、版元の意向が強く、画家や彫り師・摺師といった職人の意見は作品に反映されませんでした。しかし、庄三郎は、画家、彫り師、摺師もひとりの専門技能者と考え、それぞれの個性が反映された版画を目指しました。新版画の製作にあたり日本画家や外国人絵師たちに依頼し、芸術性の高い新しい版画を生み出します。風景画・美人画、花鳥画、役者絵など、さまざまなジャンルで新版画を制作した庄三郎は1921年6月に新作版画展覧会を開催。これは、1916年から新版画の製作を始めて、多くの画家たちとの試行錯誤の上、制作してきた成果とも言えます。この展覧会では、川瀬巴水の他、カペラリ、バートレット、キース、高橋松亭、伊東深水、山村耕花らの新版画作品を百数十点展示し、大きな話題を呼びました。

並んでいた作品の中でもとりわけ、オーストリア人のフリッツ・カラペリの作品が印象的で、クリムトと繋がるジャポニズムへの趣向が見えてくる。クリムト作品に通じるものをカラペリの木版画から感じた。

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・フリッツ・カペラリ/女に戯れる狆 1915年

色合いや署名、表情など日本の木版画とは少し異なる雰囲気がある。もしこの作品がウィーン分離派の作品の中に並んでいてもさほど違和感はないかも知れない。渡邊木版画舗はカペラリが浮世絵を買い求めて訪れた事がきっかけで、それまで複製画専門だったところから新作版画へとシフトすることになる。

・フリッツ・カペラリ
オーストリア生まれ。
ロイド郵船会社から上海の風景を書く仕事を依頼され、1911年に来日。1915年春、新しい版画の制作を構想していた渡邊庄三郎のもとへ、複製の浮世絵を購入するためにカペラリが訪れたことをキッカケに、新版画の試作、出版が始まります。離日する1920年までの約5年間で少なくとも15点を制作。そのうち12点は1915年内に出版されます。
カペラリが描いたのは、日本の風景や美人画、花鳥画です。その作品には、葛飾北斎、鈴木春信、伊藤若冲などの影響があったことが指摘され、従来の浮世絵の構図を基にした作品も見られます。カペラリは庄三郎と新版画の制作に取り組んだ最初の画家でした。のちに続く新版画の絵師たちは、カペラリの作品を参考にして生み出して行きました。

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・フリッツ・カペラリ/柘榴に白鳥(夜) 1915年

説明文にもある通りカラペリは若冲や北斎からの影響を受けている。
小原古邨の作品が先日のクリムト展で一点だけ展示されていたように、クリムトは小原古邨のコレクターでもあり、自身の作品に浮世絵からの影響を取り込んでいる。元々1873年のウィーン万国博覧会がきっかけで、オーストリアでジャポニズムがブームになったこともあって大きな影響を残している。
面白いのはそう言ったヨーロッパからの視点を持った木版画を、カペラリは制作していて日本の木版画への直接的なフィードバックがあったという事だった。カペラリが日本に長期滞在した理由は第一次世界大戦が勃発したことにより、帰国できなかったという事だが、その事によりこう言った作品が作られる機会があった事で、新版画へ影響をもたらしたのはもっと知られてもいい事実だと思う。

・渡邊庄三郎と高橋松亭
渡邊庄三郎は1906年夏に小林文七商店から独立し、複製版画ではない、新しい版画の製作を模索していました。その翌年の春、前羽商店の吉田竹次郎に相談し、資金の援助と、彫り師・近松おとじゅ、摺師・斧田太郎、絵師点高橋松亭を紹介してもらいます。そして、松亭の版下絵をもとに、オリジナルの新作版画の第1作目として墨田堤の夜が生まれます。続けて、輸出向けに約10図を製作。これらを長野県軽井沢の骨董店で販売したところ、避暑に来ていた外国人たちに好評となりました。
庄三郎は、その後、輸出用の新作版画の製作をしながら、より芸術性の高い新しい版画を目指して行くことになります。そして、1915年間にオーストリア人画家のカペラリと出会い、新版画の制作が始まります。その前段階において、高橋松亭と協力して新作版画を出版したことは、新しい版画、すなわち新版画の時代の礎を築いたといえます。

カペラリが最初に関わったのは一年余りではあったものの、その後イギリス出身のチャールズ・ウィリアム・バートレット、エリザベス・キースら日本国外の人々も新版画の制作に関わっていく事で、彫師、摺師の技術も向上することになった。

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・チャールズ・バートレット/美保の松原 1916年

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・エリザベス・キース/子供の遊び、日本 1925年

渡邊庄三郎はかつての浮世絵のスタイルにこだわることなく、新たなスタイルを絵師と模索し、彫師、摺師と共により高い技術を習得することで、日本人の絵師にも影響を与えることになった。

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・高橋松亭・伊東総山/堀切り花菖蒲 1909〜16年

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・伊東深水/明石の曙 1916年

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・古屋台軒/源氏節 1922年

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・高橋松亭/墨田堤の夜 1907

小原古邨や吉田博だけでなく、他の絵師の作品もそれまでの浮世絵よりも細かくカラフルなものが多い。大正から昭和にかけての時代ということもあり、顔料のバリエーションも増え、より色彩豊かな表現がこの頃の木版画の特徴だと言える。

作品リスト

・笠松紫浪 
渡邊木版画舗 1939
・伊東深水
明石の曙 1916 12
多摩川原の夕 1917 2
・古屋台軒 
越後獅子 1922 2
源氏節 1922
・伊東孝之(たかし)
小台の渡し 1922 1924
月島の夕照 1926
・名取春仙
藝者 1925
春仙美人三姿 鏡の前 1928
・チャールズ・ウィリアム・バートレット
Kobe 神戸の雨中 1916
Iwabuchi 岩淵の夕景 1916
Miono Matsubara三保の松原 1916
Isogo 横浜磯子 1916
Shojo 精進湖より見たる富士 1916
・エリザベス・キース
子供の遊び、日本 1925
・高橋松亭
墨田堤の夜 1907
向かい両国 1909〜16
佃の吹雪
・高橋松亭・伊東総山
堀切り花菖蒲 1909〜16
豊しまの渡し 1909〜16
・伊東総山
無題 鶏に餌をやる子供 1907〜16
・フリッツ・カペラリ
女に戯れる狆 1915
鏡の前の女 立ち姿 1915
柘榴に白鳥 1915
黒猫を抱く女 1915


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