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世界で一番好きな(のかもしれない)音楽③/Caetano Veloso Joia

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渋谷でライブを観た帰り、同じく渋谷の音楽好きが集まるバーで某レコード店のバイヤーふたりとカエターノ・ヴェローゾの話になった。
「どのアルバムが好きか」という話に僕は「ジョイア」と答えたのだけれど「それなの?」という雰囲気が三人の間に漂うのが分かり、少しばかり場違いなコメントをしてしまった気持ちになった。
結局のところ「いやあやっぱりリーヴロでしょ。」という会話でその場は締め括られ、そのまま違う話に移っていった。
帰りの電車の中でひとり頭の中で反芻する。ブラジル音楽の歴史の中でも燦然と輝くのは「リーヴロ」なのは分かる。じゃあ何故僕にとって「ジョイア」が重要なのか。その時は忘れかけてたけど、その場の会話がきっかけで思い返していた。

僕は丁度00年代にあたる二十代の初め頃から、音を加え過ぎない音楽を求めて、レコード屋を巡っていた。饒舌な演奏ではなく、どこか舌足らずなものというか。もしくはあるべき音がごっそり抜けているようなものというか。そういった志向になったきっかけは、元スピネインズのレベッカ・ゲイツの「ルビー・シリーズ」と、ジュリー・ドワロンの「デゾルメ」だった。

レベッカ・ゲイツの「セルダム・シーン」のシンプルだけれど、必要最低限で奏でられるアンサンブル。ジュリー・ドワロンはこの頃のアルバムでは、隙間の多い音を奏でていてドラムがフェードアウトしたり無音を強調していて静かさを感じさせる。足しすぎないアレンジや、ごっそりと音が抜ける所に、根幹にあるものが剥き出しになっているようなそんな音楽に心を惹かれていた。他にはスサンナ・ヴァルムルーの「ソナタ・ミックス・ドワーフ・コスモス」や、ニック・ドレイクの「ピンク・ムーン」、ヴァシュティ・バニヤンの諸作、ジョアン・ジルベルトの「三月の水」なんかもそういった視点で聴いていた。

そんな中でカエターノ・ヴェローゾの「ジョイア」を初めて聴いた時は衝撃だった。アルバム全体が声を主体にしているのだけれど、曲によっては声とリズムだけだったりあるべき楽器がごっそりと抜けていて、簡素というにはあまりにも異質。その中でも「ピポカ・モデルナ」のアレンジを耳にした時心を撃ち抜かれた。歌とストリングスとドラム、フルートが重なっているだけなのだけど、間に入るはずの音が無い。バスドラムの震えまで聴こえてくる。一体全体なんでこんなアレンジに至ったのか不思議でしょうがない。曲の根っこにあるものを換骨奪胎して歌とギターに集約させるジョアン・ジルベルトとは真逆の、足された楽器を差し引いていく抜きの美学がここにはある。この曲自体はこのアルバムの前に、ジルベルト・ジルのアルバムで取り上げられていて、そちらはフルートとドラムだけの土着的なアレンジで演奏されている。

「ジョイア」はその前のアルバム「アラサー・アズール」で試みた声の実験をポップに消化した内容で、内省的で鬱々とした前作と比べればかなり聴きやすい。より音楽的な内容にアップデートしながらも、結果的に音を抜き去る所まで落とし込むカエターノの姿勢が面白い。同時期に録音された「クァルケール・コイザ」は近い雰囲気はあるものの、弾き語りが中心に添えられていて、曲によってはしっかりとアレンジが施されている。この二枚を比べるだけでも「ジョイア」の異質さがより際立つ。

僕が何故「リーヴロ」ではなく、「ジョイア」をカエターノのアルバムの中で真っ先にあげる一枚なのか。表現者としてのカエターノの作品の中でもポップかつ前衛さが足さない事でなし得た事と、ジョアン・ジルベルトとは違うベクトルで静かさに接近したアルバムだという事。カエターノの声と楽曲の良さがあるからこそ成り立つ世界でもあるのだけれど。

音楽の視点の重点をどこに置くかで、聴く音楽から見えてくる世界は変わってくる。豪華絢爛な音に酔いしれるのもひとつの聴き方だと思うし、ローファイなものに心を打たれる聴き方もある。聴き手の想像力に寄り添う作品もあると言うことも強調しておきたい。



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