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デヴィッド・ボウイとクラウトロック⑤/ヒーローズ

ネクスト・デイで表したボウイというアイコン

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2013年、長い沈黙を破り多くの人の不意をつく形でリリースされた「ザ・ネクスト・デイ」。そのジャケットはアルバム「”ヒーローズ”」を塗りつぶす形で白枠に「The Next Day」とタイプされた古参のファンをドキりとさせるものだった。デザインを考えてこのアルバムが選ばれているかもしれないが、表現者としてのボウイ自身のキャリアのピークとして「”ヒーローズ”」を選び、それを更新しようという意欲を感じ取る事が出来る。それほどまでにこのアルバムのジャケットはアイコニックで、そこに映るボウイの輝きは鈍る事が無い。

ミヒャエル・ローターにギタリストとして参加を要望するが…

1977年、ボウイは”ヒーローズ”のセッションを始める前にノイ!のギタリスト、ミヒャエル・ローターへセッションの参加を打診する。ノイ!でのノイジーかつ浮遊感のあるギターを求めて彼に声をかけたのだろうが、この話はセッション前に暗礁に乗り上げてしまう。ローターいわくボウイと電話でやりとりし、話が進んでいたものの当時のマネージャーから「ボウイがあなたを必要では無くなった」と告げられ一方的に契約は白紙となってしまった。後にボウイの言い分ではローターが辞退したと周囲から聞かされたと2000年のインタビューで答えている。
それぞれ言い分が異なりはっきりとした理由は不明なものの、レコード会社側の人間から、ロウ以上に実験的な内容に進まないように画策された可能性がある。「ロウ」のリリースはレコード会社から先鋭的すぎるという理由で12月の商戦から外され、翌年の1月に遅らされている。「ロウ」は結果ヒットしたものの、「不確定な売り上げ見込み」というリクープ出来るか分からない同じ轍を踏ませたくないレコード会社の思惑が絡んでいたと想像出来る。とにかくミヒャエル・ローターの参加は結果無くなってしまった。
ひとつ気になる部分がある。2000年のボウイのインタビューではミヒャエル・ローターをミヒャエル・ディンガーと名前を間違えている。まあ四半世紀近く過ぎているので記憶があやふやな部分はあるかもしれない。さらに気になるのは78年にツアーで日本に来た際、坂本龍一との対談で、クラウトロックの話になったときだ。クラフトワークやCAN、ノイ!の名前を出した教授を遮るように「ノイ!を知っているの?クラウス・ディンガーは?ノイ!のギタリストだよ。」とギタリストとしてクラウス・ディンガーの名前を出している。一体ボウイはどちらを起用したかったのか。ノイ!で流れていたギターを自分の作品に取り入れたかったのは間違いない。しかしそれがクラウス・ディンガーなのかミヒャエル・ローターだったのかは曖昧なまま「ノイ!のギタリスト」を選択しようとしたのかも知れない。(ボウイはキャリアを通してギタリストに固執する癖がある。)

ミヒャエル・ローターとヤキ・リーベツァイトが起用されていたら…

ところでもし”ヒーローズ”でミヒャエル・ローターが起用されたとしたらどうなっていただろうか。ローターはCANのドラマーであるヤキ・リーベツァイトも呼び寄せる事が出来るとも話していて、ノイ!とカンというボウイが入れ込んでいたドイツのバンドと繋がりのあるアルバムを作り上げる可能性があった。もし彼らが参加したとしたらと想像したとき、ローターのソロを聴けば少しはどういったアルバムになったのか、思い浮かべることが出来るかもしれない。

・Michael Rother/Karussell

ローターは77年にソロアルバム「フラメンデ・ヘルツェン」をドイツ国内でヒットさせている。ドラムはヤキ・リーベツァイト。ノイ!よりもハルモニアに近い雰囲気で浮遊感のあるニューエイジな作品である。
もうひとつキーになるのは、同じ年に発表されたイーノの「ビフォア・アフター・サイエンス」でのヤキ・リーベツァイトのドラムだろう。

・Brian Eno/Before and Before and after science

ここでのイーノはデヴィッド・バーンとの共作「ブッシュ・オブ・ゴースツ」の青写真的な音楽を作り上げていて、ボウイの「ロジャー」への布石にもなっているアルバムとなってる。

・Brian Eno and David Byrne/
My life in the bush of ghosts

ローターとイーノの二作を聴くと「”ヒーローズ”」でのボウイが求めていたものに近いサウンドがあるものの、おそらく今ある「”ヒーローズ”」とは違ったもっと緩やかな内容のものになったのではないかと推測される。どちらかと言えば「ロウ」での牧歌的な曲の方がローターのギターは自然に解け合っていたかも知れない。実際ボウイは「ロウ」の時点でローターの参加を求めていた。
さらにこの時にノイ!のプロデューサーだったコニー・プランクが参加していればまた違った結果になったかもしれないが、プランクは参加を拒否したためどちらにしても叶う事はなかったと考えられる(イーノのアルバムには参加している)。

そしてボウイは”ヒーローズ”リリース後ベルリンを離れてしまうため、ベルリン三部作ではボウイの入れこんだドイツのバンドの人々とはアルバム製作に一切関わることが無いまま終わってしまう結果となってしまった。

ロウの過剰さをさらに押し進め、緊張感のあるサウンドを築き上げた”ヒーローズ”のサウンドは抑制のきいたボウイのボーカルが最高点に到達したアルバムだった。サウンドもファンク色よりもロック色が強まり、ポストパンクに近い肌触りがある。

ローターもインタビューで「このサウンドを聴いて自分がこれを超える演奏ができたか」と自問しながら、お互い交わる事無くそれぞれの道を進んでいくことになる。

"ヒーローズ"

前作「ロウ」はA面でカラフルな色彩感とB面のモノトーン暗さがあったが、ここではそのフォーマットを踏襲しつつ、ジャケットのようなモノクロームな世界観に統一されている。歌ものとインストというアルバム構成は「ロウ」に近いものの、シンセサイザーのキッチュな音作りは鳴りを潜め、ギターオリエンテッドなアンサンブルに切り替わっており、シンセサイザーの使用はイーノによるトリートメントが施しがメインになっている(イーノ曰く「ヒーローズ」の処理はやり過ぎたとの事)。00年代のディスコパンクを予見するような曲調は「ステイション・トゥ・ステイション」の音楽性をさらに突き詰めた内容のアルバムとも言える。当時批評家から「隠れディスコ」と揶揄されていたが「ビューティ・アンド・ビースト」、「ジョー・ザ・ライオン」、「ブラックアウト」辺りはポストパンク、ニューロマや後のフランツ・フェルディナンド、LCDサウンドシステム、ラプチャーのようなダンサブルなロックの雛型になったような曲だったと考えられる。
このアルバムはなによりもボウイのパフォーマーとしての声が遺憾なく発揮されていて、全キャリアの中でもピークだったのではないかと思うほど絶頂期をパッケージしている。特に代表作「ヒーローズ」でのトニー・ヴィスコンティがあつらえたマイキングによって、ボウイの張り上げる声をハンザスタジオの持つ音の広がりでしっかりと捉えている。「ジョー・ザ・ライオン」でのThis Monday〜のくだりの部分のモノローグような語りと歌の間のような表現や、ソフトな出だしからメロディアスなサビが印象的な「サンズ・オブ・サイレンスエイジ」などボウイのボーカリストとしての実力を十二分に聴くことが出来る。
B面は「ロウ」の世界観をさらに推し進めた「センス・オブ・ダウト」や、次作「ロジャー」に繋がる「ザ・シークレット・ライフ・オブ・アラビア」など3部作の中間地点らしい作品でもある。


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