ルイス・アルベルト・スピネッタの軌跡⑤/アルメンドラリユニオンからスピネッタ・ハーデ結成
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・アルメンドラのリユニオン
10年前に一世風靡したアルメンドラを再結成するという想いはメンバーの頭から離れなかった。アメリカに拠点を移していたエデルミロ・モリナーリがアルゼンチンに帰国するたびに、元メンバー4人で集まってアサード(肉料理)とジャムが並べられたテーブルを共にしていた。その際、必ずアルメンドラの話が出て来たが、何らかの理由で再結成は見送られて来た。
弁護士でスピネッタのエージェントを勤めることになるアルベルト・オハニヤンの提案もあり(スピネッタのアルバムのライセンスには彼の名前が並んでいる)、結果的にオブラス・サニタリアス・スタジアムで12月6日、7日の2回だけコンサートを行う目的で、Almendraを再結成することになった。しかしこの2回のコンサートは成功し、1979年12月7日、8日、9日に6回のコンサートが行われ、31,000人を動員した。10年前に解散したバンドとしては予想外の動員であり、特に最後の軍事独裁政権下では、弾圧が大量虐殺にまで及んでいたこともあり、ロックや若者が自ずと反体制の疑惑の対象になった。後に軍事独裁政権が終わりを告げ、民主主義を取り戻した頃に機密解除された秘密文書には、アルメンドラの若々しい呼びかけを前にした軍事独裁政権側が抱いた懸念とスパイ活動、そしてこれらのコンサートの開催を阻止しようとしたことが記されていた。
アルメンドラは、ロサリオ、コルドバ、メンドーサ、ラプラタ(ここでは警察による強い弾圧があり、200人近くが逮捕された)、プンタ・デル・エステ(ウルグアイ)で演奏し、最後にマル・デル・プラタのワールドカップスタジアムで7,000人の観客を前にした「フェアウェルコンサート」を行ったが、大成功を収めたことでこのラインナップを維持することになった。アルメンドラの再結成により、独裁政権下での大規模なロックコンサートの機会が増え、1982年のマルビナス戦争の後には爆発的に増えていくことになる。
1980年3月にはオブラス・サニタリアス・スタジアムで行われたコンサートを収録した2枚組ライブアルバムが発売され、同年末にはアメリカでスタジオアルバムのレコーディングを開始し、12月にアルバム「El valle interior」がリリースされる。
・Almendra/en Obras I y II 1980
リリース:1980年
Lado A
Ana no duerme (Spinetta) Almendra Ⅰ収録
Para saber cómo es la soledad(Tema do Poroto) (Molinari - Spinetta) シングル収録
Plegaria para un niño dormido (Spinetta) Almendra Ⅰ収録
Figuración (Spinetta) Almendra Ⅰ収録
Lado B
Cambiándome el futuro (del Guercio)アルバム未収録
Vamos a ajustar las cuentas al cielo (Spinetta)アルバム未収録
Mestizo (Molinari) Almendra Ⅱ収録
Lado C
Jaguar herido (Spinetta)アルバム未収録
Color humano (Molinari) Almendra Ⅰ収録
Lado D
Hilando fino (Spinetta)アルバム未収録
Muchacha (ojos de papel) (Spinetta) Almendra Ⅰ収録
Hermano perro (Spinetta)シングル収録
Rutas argentinas (Spinetta) Almendra Ⅱ収録
Edelmiro Molinari: Guitarra y coros.
Emilio del Guercio: Bajo y coros.
Luis Alberto Spinetta: Guitarras y voz.
Rodolfo García: Batería, Percusión, vibráfono y coros.
オブラス・サニタリアス・スタジアムで1979年12月7日、8日、9日の間に行われたライブを収録した二枚組。同時に撮影され映像も残っているということだが、公開はされていない。カルロス・ピリスが6回のコンサートを録音したもので、16チャンネルのシステムをスタジアム脇のトラックに設置し、もうひとつのサウンドシステムであるホールのサウンドシステムは、エクトル・スタークのコンソールでコントロールしていたため、声や楽器ごとに2本のマイクが必要だった。「Cambiándome el futuro」「Vamos a ajustar las cuentas al cielo」「Jaguar herido」「Hermano perro」の四曲はスタジオ録音されず、聴けるのはこのライブアルバムのみ。彼らの頭の中には、再結成を超えて一緒に活動を続けるというアイデアが浮かんでいた。またこの四つの新曲に加えて、新曲を作曲してレコーディングするというアイデアが浮上してきた。
観客の声は解散から10年経ってもなお人気の高さを感じさせる熱気を感じさせる。80年という時代もありサウンドは時代に沿ってアップデートされているが、それ以降のスピネッタには無いアルメンダラらしいバブルガムなポップな魅力を改めて確認することができる。
・Almendra/El valle interior 1980
リリース:1980年12月
Lado A
Las cosas para hacer (Del Guercio) 6.35
Amidama (Spinetta) 3:24
Miguelito, mi espíritu ha partido a tiempo (Spinetta) 8:43
Lado B
Espejada (Spinetta) 2:03
Cielo fuerte (amor guaraní) (Del Guercio) 4:40
El fantasma de la buena suerte (Spinetta) 6:42
Buen día, día de sol (Spinetta) 4:41
Luis Alberto Spinetta: Guitarra, voz, coros.
Emilio del Guercio: Bajo, voz, coros.
Edelmiro Molinari: Guitarras.
Rodolfo García: Batería, percusión, coros.
再結成ライブは翌年の1981年2月15日のラ・ファルダ市でのコルドバ・フェスティバルまで、アルゼンチンのバンドによる初の大規模ツアーとなる32都市でのツアーが行われた。ツアーを行う途中の1980年11月にアルメンドラとしてのサードアルバムがアメリカのハリウッドにあるコンウェイ・スタジオで録音された。ツアーが盛況な反面、このアルバムは期待したほどの成果は得られなかった。スピネッタ・ハーデのファースト・アルバムと同時期に発売されたことや、アルメンドラのメンバーがこの作品を広めることにあまり関心がなく、ベースのエミリオ・デル・グエルシオは「あまりプロモーションをしなかった」と話している。しかし、ジャズに傾倒していたこの頃のスピネッタの作風とも少し異なるアルメンドラのサウンドは、解散してからの10年間の彼らの成長と音楽的な成熟を見ることができる。特にラストの「Buen día, día de sol」でのR&Bからの影響が色濃いファンキーなギターカッティングとキャッチーなフレーズは、同じアメリカ録音の「Only love can sustain」でのR&Bと比べると生き生きとしたバンドのプレイが印象に残る。
ジャケットはミネラルウォーターブランド「Villavicencio」のラベルで、メンドーサのグランホテル「Villavicencio」が描かれている。ジャケット雑誌で活躍していたコミックアーティストのエドゥアルド・サンテランが描いたもので、スピネッタ・ハーデのアルバム「Bajo Belgrano」のジャケットも彼によるもの。アルゼンチン人にとってこのホテルは親しみのあるイメージであり、日常的なイメージを使いたいと考えたEmilio del Guercioのアイデアによるもの。
(アルメンドラのサードは時系列ではスピネッタ・ハーデのファーストリリースの後にレコーディングしリリースされているが、バンドをまとめた並びを考えてこの順番にした。)
・スピネッタ・ハーデ Spinetta Jade
1980年アルメンドラの再結成と並行してスピネッタ・ハーデを結成。インヴィシブレのサード以降のジャズ・ロック・スタイルを突き進めつつ、バンダ・スピネッタのインストゥルメンタル重視の音楽性から離れ、よりポップな曲や要素を取り入れていた。
インヴィシブレ解散後にドラムのエクトル・ポモ・ロレンソはベースのマチ・ルフィーノと共に「Sr.Zutano」を結成。メンバーにM.I.Aに所属していたキーボードのフアン・デル・バリオと、ギタリストのリト・エプメルを迎える。
M.I.AとはMúsicos Independientes Asociados(独立系音楽家の協同組合)の略で、1975年に新しい才能の出現を促進するインディペンデントなプロジェクトとして誕生した。リト・ビターレ、フアン・デル・バリオなど約50人のミュージシャン以外に、サウンドエンジニア、照明デザイナー、グラフィックデザイナーなども含まれていた。協同組合に成長し、商業的なサーキットの外で自分たちのコンサートやレコーディングをプロデュースし、アルゼンチンにおけるインディペンデント・ロックの先駆けとなった。
Sr.Zutanoは検閲による取り締まりでライブは行えず、レコード会社との契約を取り付ける事も出来ずにいた。バンドが頓挫しつつある中、ポモ・ロレンソはスピネッタのバンドに戻る事になる。
スピネッタはアメリカ録音のために消滅してしまったバンダ・スピネッタのジャズ・ロック・サウンドを継承したスピネッタ・ハーデを結成。当初は仮のラインナップとしてポモ・ロレンソ(ドラム)、フアン・デル・バリオ(キーボード)、リト・ビターレ(キーボード)のSr.Zutano組と、チャーリー・ガルシアのバンド「セル・ヒラン」に所属していたペドロ・アスナール(ベース)(ゲスト扱い)というメンバーでスタートした。スピネッタ・ハーデはSr.ZutanoとM.I.A、バンダ・スピネッタに居たメンバーが入れ替わり参加していく事になる。初期スピネッタ・ハーデのスタイルは、当時のアルゼンチンのシーンでは珍しいキーボード2人体制のバンドで、1980年5月3日にデビューライブを敢行する。
しかしこの一ヶ月後、バンドがリト・ビターレの家でのリハーサルの休憩中、社会現象としてのロックカルチャーの位置づけや、社会問題の観点からミュージシャンが果たすべき役割についての議論が起こり意見が割れた結果ビターレが脱退。代わりに元バンダ・スピネッタに参加していたディエゴ・ラポポルトがキーボードで参加することになった。
さらにゲストという立場ではあったが、スピネッタからバンドへの参加を要望されていたペドロ・アスナールが去りベト・サトラニに変更される。アスナールはセル・ヒランのベースも担当していたため、スピネッタ・ハーデとの関係、要するにチャーリー・ガルシアとスピネッタの間に挟まれていた。「Digital Ayatollah」のレコーディングのためのスタジオでのセッションの時間が日曜日の早朝からスタートした事などが早い段階での脱退の原因となった
1980年9月、スピネッタは上記のメンバーを従え、チャーリー・ガルシアのセル・ヒランと共にオブラス・サニタリアス・スタジアムで歴史的なジョイントコンサートを行う。スピネッタとガルシアは雑誌で二人が対立した様に書き立てられていたが、それはあたかもロック版「リーべルとボカ(アルゼンチンの対立するサッカーチーム)」であるかのように語られていたが、それぞれのバンドを率いた二人のミュージシャンの記念すべきショーであった。
スピネッタ・ハーデはメンバー交代の紆余曲折を経て、ファースト・アルバムに向けて準備が進められていく。
・Spinetta Jade/Alma de diamante 1980
リリース:1980年10月
Todas las canciones escritas y compuestas por Luis Alberto Spinetta
LADO A
Amenábar 5:29
Alma de diamante 4:20
Dale gracias 5:20
Con la sombra de tu aliado (el aliado) 4:27
LADO B
La diosa salvaje 6:20
Digital Ayatollah 5:01
Sombras en los álamos 8:07
Beto Satragni: Bajo.
Pedro Aznar: Bajo en Digital Ayatollah.
Diego Rapoport: Pianos Rhodes y Yamaha y OBX-8 en "Sombras en los álamos".
Héctor "Pomo" Lorenzo: Batería y Percusión.
Juan del Barrio: OBX-8, Minimoog y ARP Odyssey.
Luis Alberto Spinetta: Guitarras y Voz.
Ingeniero: Carlos Piriz.
Asistente: Laura Fonzo.
Asistencia Técnica: Dery y Miguel Scalise.
Equipamiento: Juan Carlos Blardone, Juan Ignacio Lebek, Juan Carlos Camacho.
Fotografía: Hidalgo Constante Boragno.
Producción Artística: Luis Alberto Spinetta.
Producción Ejecutiva: Alberto Ohanian.
1980年10月、Spinetta Jadeはファーストアルバム「Alma de diamante」をリリース。シンセサイザーとエレクトリックピアノがフィーチャーされたバンドのサウンドは、ジャズ・ロックだったバンダ・スピネッタと比較するとフュージョンに近いスタイルに変化しているが、不穏な不協和音とポップさが同居したアルバムに仕上がっている。この頃のサウンド、特に「Dale gracias」は、同時期のブラジルのロー・ボルジェスやフラヴィオ・ヴェントリーニの様なミナスサウンドに近いものを感じさせる。
日本でも細野晴臣が影響を受けていた事でも知られる人類学者カルロス・カスタネダのシャーマニズムに関する4冊の本(『呪術師と私: ドン・ファンの教え』、『分離したリアリティ』、『イクストランへの旅』、『力の話』)を読んだことがきっかけで、詩的なインスピレーションを得て作曲された曲で構成されている。スピネッタにとってカスタネダの作品は非常に重要なものであり、ラテンアメリカ文学の未来と過去を示すものであり、ヨーロッパ中心の文化的枠組みからの脱却を強調するものであった。
「Dale gracias」(「戦士は決して行進を止めないことを忘れないで」)と「Con la sombra de tu aliado (el aliado)」(「砂漠であなたは真実を見る」)という、『呪術師と私: ドン・ファンの教え』の著者の作品に言及した2曲が収録されている。 このアルバムには、バンドの代表曲であり、スピネッタの自作曲でもある「Alma de diamante(ダイアモンドの魂)」や、数年後に大手レコード会社と対峙して自宅に設置するレコーディングスタジオの名前「La diosa salvaje」なども収録されている。
「Digital Ayatollah」はキング・クリムゾンやマス・ロック/ポスト・ロックの様な楽器が絶えずフレーズを繰り返すパワフルなインストゥルメンタル曲だが、ジョン・マクラフリンに捧げられている。アヤトラに言及しているのは、前年に起きたホメイニ師を中心としたイラン革命に関連するもの。
・Spinetta Jade/Los niños que escriben en el cielo 1981
リリース:1981年11月
Todos los temas pertenecen a Luis Alberto Spinetta
Arreglados por Pomo, Diego Rapoport, Leo Sujatovich, Frank Ojstersek y Spinetta.
LADO A
Moviola 3:32
La herida de Paris 4:20
El hombre dirigente 4:32
Sexo 5:48
Siguiendo los pasos del maestro 2:48
LADO B
Contra todos los males de este mundo (el antídoto) 3:06
Un viento celeste 6:49
No te busques ya en el umbral (umbral) 2:32
Influjo estelar 3:20
Nunca me oíste en tiempo 4:46
Luis Alberto Spinetta: voz y guitarras Fender Telecaster Deluxe y Gibson con MXR Digital Delay.
Diego Rapoport: pianos Rhodes y Yamaha - OBX-8.
Leo Sujatovich: Multimoog - Minimoog - Arp Omni y OBX-8.
Frank Ojstersek: bajo Ibanez con Audiarts Parametrics EQ.
Pomo Lorenzo: Gretsch drums - platos Zildjian y percusión.
アルメンドラの再結成と、1981年2月15日のラ・ファルダ・フェスティバルを頂点とする長い全国ツアーによってスピネッタ・ハーデの活動は一時的に中断された。しかし、その年の半ばには2枚目のアルバム『Los niños que escriben en el cielo』(1981年)をレコーディング。バンドのラインアップが変更され、キーボードがフアン・デル・バリオに代わってレオ・スジャトビッチ、ベースがベト・サトラニに代わってフランク・オイスターゼックとなり、サウンドはよりポップなものになったが、ファーストアルバムのスタイルを継続し二台のキーボードの使用は続いていた。1981年9月21日にエセイサで開催されたプリマ・ロック・フェスティバルですでに披露されていて、バンドはリリース前のアルバムからの曲(「El hombre dirigente」「Contra todos los males de este mundo,」「Nunca me oíste en tiempo」「No te busques ya en El Umbral (Umbral)」)を演奏した。
スピネッタが意図してアップテンポの曲を増やしたため、前作では7曲しかなかったが本作では10曲に増えている。「テーマがより明確になり、曲もより新鮮になった」とラポポルトは語っている。複雑なアンサンブルが中心だった前作に比べて、曲を聴かせるアレンジに重心が移ったためポップさが増している。それまではギターがバンドの中心に添えられていたが、キーボード・デュオのラポポルト=スジャトヴィッチの演奏とアレンジがバンドの中心となっている事もバンドの変化を物語っている。特にラポポルトの存在がこのラインナップの中で非常に重要な役割を果たしており、スピネッタは「このプロジェクトの要はスピネッタとラポポルトだった」と語っている。
Los niños que escriben en el cielo(空に文字を書く子供たち)というタイトルについてスピネッタは次のように述べている。
アルバムの中でも一番ポップな「La herida de Paris」は、トロイでアキレスに致命傷を負わせた神話上の人物であるパリスという名前の二重の意味で遊びながら、「パリの音を導入する(恐らくMaj7コードを多用している事と思われる)」というフアン・デル・バリオの提案から生まれた曲である。スピネッタは、ジャーナリストのフアン・カルロス・ディエスの著書『Martropía, conversaciones con Spinetta(スピネッタとの対話)』の中で、なぜこの曲を作曲したのかはわからないが、「何か面白いことがあるはずだから」という理由で、それからはずっとこの曲を演奏していたと語っている。
アルバムの最後を飾る「Nunca me oíste en tiempo」は、そのスタイルと歌詞の両方において、「あるべき姿に基づいてイデオロギー的な立場に自分を限定する」批評家やジャーナリストに向けられた力強い曲である。軍事政権下の中、歌詞の中で政治的なスタンスを表明しなければ意味がないと考えられていた。
出典・参照元
https://es.wikipedia.org/wiki/Almendra_en_Obras_I
https://es.wikipedia.org/wiki/El_valle_interior
https://www.encontrarte-musical.com.ar/el-valle-interior-almendra/
https://es.wikipedia.org/wiki/Spinetta_Jade
https://es.wikipedia.org/wiki/Alma_de_diamante_(%C3%A1lbum)
https://www.pagina12.com.ar/diario/suplementos/radar/17-2473-2005-08-28.html
https://www.pagina12.com.ar/diario/suplementos/espectaculos/17-27293-2012-12-12.html
https://es.wikipedia.org/wiki/Los_ni%C3%B1os_que_escriben_en_el_cielo
https://ilcorvino.blogspot.com/2007/02/siguiendo-los-pasos-del-maestro-matropa.html
https://es.wikipedia.org/wiki/Kamikaze_(%C3%A1lbum_de_Spinetta)
https://web.archive.org/web/20120712031427/http://www.armatubanda.com/resena-kamikaze-spinetta/
http://lacoleccionc10.blogspot.com/2009/06/luis-alberto-spinetta-kamikaze-1982.html
http://tallerlaotra.blogspot.com/2009/11/spinetta-y-las-bandas-eternas.html
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