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デヴィッド・ボウイとクラウトロック①/ダイアモンドの犬

はじめに

パンクからポストパンクへ移り変わる時代に作られたベルリン三部作は、クラウトロックからの影響について語られる事が多い。しかし、クラフトワークやノイ!、カンなどの音楽と聴き比べると、似ている部分をさほどは感じられないようにも思える。ロウのB面で奏でられたミニマルやシンセサイザーの使い方に一番近しいものが感じられたりもするが、所謂クラウトロックの様な表現かというと違和感を感じる。確かにベルリンに住んでいた時期があり、クラフトワークやノイ!カン、クラスター、ファウストの様なドイツのバンドに傾倒していたのは彼の口からも語られている。あからさまに影響が表面にも出ていたのは、ロウやヒーローズよりも、その前後のアルバムの方だったのではないだろうか?
その影響が垣間見られ始めた「ダイアモンドの犬」から「ロジャー」の頃のボウイの足跡を追って紐解いていきたい。

パンク以降のポストパンク/ニューウェイヴの頃について書かれている雑誌や本を読んでいると、高い確率でデヴィッド・ボウイの名前を目にする。イギリスのパンクムーブメントがそれ以前のヒッピーやオールドウェイヴの連中を表舞台から引きずり落とそうとする中で、時代の変わり目をシームレスに跨いだミュージシャンはそれほど多くは無い。ロンドンパンクの終焉を捉えたドキュメンタリー「D.O.A.」を観てもわかる様に、パンクバンドと観客のヴィジュアル面でグラムロックは明らかにパンクのロールモデルとなっていた。一方でパンクが起こした初期衝動はテクニック至上主義にリセットをかけ、商業主義に傾倒していたミュージシャンを前時代的なものへと価値観が覆された。その中でもピンク・フロイドは、パンク勢から攻撃の矢面に立たされていたが、その反面、初期メンバーだったシド・バレットはパンク〜ニューウェーブの時代にかけて一部でカルト的に人気が高まっていた。オールドウェイヴ勢の中でシド・バレット以上にパンク〜ポストパンクに強く影響をもたらしたのがデヴィッド・ボウイだったと言える。ジギー・スターダストという派手なペルソナに注目されがちだが、その後のアメリカでの活動からベルリン三部作を通してこの時期の作品のバックグラウンドには、ポストパンクに通底する共通の音楽性が内在されていた。ひとつはジェイムス・ブラウンなどのアメリカのソウル/ファンクで、もうひとつがドイツのロックシーン。ポストパンクが内包していたファンクの影響元は、80年前後のブリットファンクから来ていた事が最近下記の記事で知られることになったが、ボウイは70年代中盤にそれらとは異なるファンクとロックの融合を試みていた。

ドイツのロックシーン、いわゆるクラウトロックはクラフトワークのアメリカでのヒットはあったが、それまでのロックとは異質な音楽性に70年代のイギリスで耳の早いリスナーの中で浸透していった。
そのような時代を象徴するように、パンク崩壊後の1978年から1984年までのポストパンクからニューウェーブまでを扱った「ポストパンクジェネレーション1978-1984」と、ドイツのロックシーンを扱った「フューチャー・デイズ──クラウトロックとモダン・ドイツの構築」という二冊の本には、この時代のミュージシャンの証言の中にボウイの名前が記されている。

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「ポストパンクジェネレーション」はセックスピストルズ解散後PIL結成から始まり、ポストパンクの時代の終焉までを当時の主要なバンドを軸に紹介する一冊で、「フューチャーデイズ」は60年代終わりから70年代のクラウトロック全盛の時代を、バンドごとに章立てして紹介する一冊となっている。70年代前半のクラウトロックの存在は英米のロックとは違ったスタイルを形成していて、米軍がもたらした英米ロックカルチャーと現代音楽や電子音楽が合わさった独自の音楽性が花開いていた。BBCのラジオDJだったジョン・ピールが電波に流し、スタート当時のヴァージン・レコードを通じてイギリスのリスナーに広まっていった。ドイツ国内ではクラウトロックのレコードの大半は受け入れられず、イギリスでの需要の方が高い状態だった。70年代後半の時代になると、クラウトロックに影響を受けたポストパンクのバンドが登場し、シンセサイザーを使用するという共通項はありながらも、それぞれ異なる形で発展していく。その中でもユニークなのがデイヴィッド・ボウイの存在で、ポストパンク、クラウトロック両方の影響元として両書に登場している。ボウイはノイ!のクラウス・ディンガーや、クラフトワークが持つ美意識や世界観と共振し、互いに影響を与えあっていた。
しかし、ボウイが作り上げたベルリン三部作と言われる「ロウ」「"ヒーローズ"」「ロジャー」を聴くと、クラウトロックのサウンドとは少し毛色が異なっている印象がある。これらのアルバムが紹介される際に、”クラウトロックに影響されたアルバム”と言われることが多いが、クラウトロックからの直接の影響というにはあまり共通項を見出すのが難しい。
「V-2シュナイダー」「ノイケルン」のようにタイトルがクラフトワークらを想起させるものや、「レッド・セイルズ」のようにノイ!のビートを使っているものは一部存在するが、音楽の構造的な部分をみているとクラウトロックとは別物のように感じられる。ボウイがクラウトロックに影響を受けていたことは、79年2月号のニューミュージックマガジン(2016年3月号のレコードコレクターズに再掲)での坂本龍一との対談に綴られている。

ボウイ「ドイツのバンドは好き?」
坂本「もちろん。とくにファウスト、カン、それに….」
ボウイ「カン?カンを知っているの。じゃあ、ノイは?クラウスディンガーのバンドだ。ギタリストだよノイの。」
坂本「ノイは知ってるけど、その人のことはよく…..。」
ボウイ「ノイは、もともとクラフトワークの一部だったんだ。」

ニューミュージックマガジン79年2月号

対談から分かる通り、ボウイはクラウトロックから影響は受けている(対談ではジョン・ケイジやフィリップ・グラス、スティーブ・ライヒ、テリー・ライリーについても言及している)。では実際にどのようにドイツのシーンと関わり、取り入れ/取り入れなかったのかを「ダイアモンドの犬」から「ロジャー」までを辿って検証して行きたい。

垣間見えるクラウトロックの音像

ボウイがノイ!やクラフトワークのレコードを手に入れてハマっていたのは75年のアルバム「ステイション・トゥ・ステイション」の頃で、ヨーロッパ志向に回帰し「ロウ」のレコーディングの後にベルリンへ向かうのはよく知られている。しかし、それ以前の74年にリリースされた「ダイアモンドの犬」に収録されている「スウィート・シング」リプライズの1分30秒あたりから差し込まれるノイジーな演奏を聴くと、明らかにノイ!のファーストに収録されている「ネガティブランド」に影響されたと思わしきアンサンブルが奏でられている。

・David Bowie/Sweet thing(Repreise) 

・Neu!/Negativland

この二つを並べて聴けば分かるように、明らかに似た表現があり、ボウイがたまたまノイ!と似たようなアンサンブルを組み立てたとは考えにくい。
手がかりとして、この時代のイギリス国内のクラウトロックの需要を調べているとジョン・ピールのラジオのプレイリストに行き着いた。クラウトロックは70年代前半のイギリスでほぼ同時期に受け入れられていたようで、ピールのプレイリストを見ると、70年にカンのモンスター・ムーヴィー、73年にノイ!のセカンドとファーストが紹介されている。

ボウイがこの放送を聴いたかどうかは正確には分からないが、ジョン・ピールのリストを見る限りノイ!やカンに限らず、当時のイギリスの耳の早い人たちの間でドイツの音楽が話題になっていたのは推測出来る。オンエアーがアルバムのリリースの前年ということからも、いち早くトレンドを嗅ぎ分けるボウイがこの時点で聴いていた可能性は高い。

ジョン・ピールらによってイギリスで紹介されたクラウトロックの需要は、まず最初にカンが起点になり、その他のクラウトロック勢が紹介され広まったきっかけになったと思われる。イギリスのミュージシャンの中でも早い段階で自身の音楽に落とし込もうとした、ボウイの着眼点はとにかく早い。
ただしボウイがこの時点で目指したサウンドは、ノイ!のもつミニマルでドラマ性を排した機械的な音楽をトレースしたわけでなく、無機的で退廃的な「ダイアモンドの犬」のドラマ性と結びつけてしまっている。テクノの源流とも言えるノイ!の執拗に繰り返されるフレーズに比べ、先の時代を思い浮かべると読み間違えている節がある。ジギー時代にもヴェルヴェット・アンダーグラウンドをアメリカンロック解釈でカバーしていたように、ボウイは度々アウトプットの部分でその後の時代との接点にズレが生じる事がある。
一方ブライアン・イーノはサウンドよりもリズムに着目し、ノイ!のリズムについては、ジェームス・ブラウンとフェラ・クティに並んでビートの重要性を語っていた。ノイ!やカンとポストパンクの結びつきは、その後のテクノやポストロックに影響が連なっていくように、ドラマ性よりもリズムとサウンド面の編集といった面の繋がりの方が強いと思われる。
「ダイアモンドの犬」の時点でノイ!のサウンドが参照されていた事はその後のフォロワーとの繋がりが深くないため、あまり振り返られる機会は無かったと思う。ボウイがクラウトロックのサウンドを理解し表現するには時期が尚早であった。
その後、渡米したボウイはアルバム「ヤングアメリカンズ」と「ステーション・トゥ・ステーション」でアメリカの黒人音楽へと方向転換を図るが、ボウイの意図とは別にイーノはこれらのアルバムに内包されたミニマル的感覚をこの二枚から感じ取り、ベルリン3部作ではポストパンク以降への布石となる音楽への一歩を共に歩みだすことになる。

アンビエントというジャンルを開拓するイーノと、己の感覚を突き進むボウイはお互いのソロ作を聴き込んでおり、お互いの作品に対して共振する事で後にコラボレーションへと結びついていく。二人はヨーロッパ大陸に向かいまずはフランスへ移動する。
その前にまずは渡米したボウイの足跡を辿りたい。

ダイアモンドの犬

それまでサウンド面で大きな役割を担っていたギタリストのミック・ロンソンと別れて、ボウイがプレイも含め自身の音楽性とデカダンスに向き合ったアルバムではあるが、ボウイのプレイアビリティの低さが露呈してしまい、全体的に荒削りなアルバムになってしまっている。
ジョージ・オーウェルの1984を題材にしているものの、オーウェルの親族から1984を使うことの許諾が降りず、半端な内容になってしまった。
「世界を売った男」に通じる終末観や、ウィリアム・バロウズの影響で着手した歌詞のカットアップは後の「アウトサイド」へと結実するゴシックな世界が繰り広げられているが、アメリカのソウルミュージック/フィリーサウンドと、ジギースターダストの世界観の狭間のなかでの過渡期で、フォークロック的なボウイのソングライティングが中心となっている。マジカルな転調を繰り返すボウイの初期作の良い部分も多く散見されていて、曲自体は良いものが多い。
ダイアモンドの犬、レベルレベルのようなストーンズタイプのロック、ウィ・アー・ザ・デッドやビッグ・ブラザーのような退廃的な内容なら挟まれ、フィリーサウンドを構築した1984は次作の「ヤングアメリカンズ」へと繋がっていく。


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