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デヴィッド・ボウイとクラウトロック③/ステイション・トゥ・ステイション

クラフトワークとの出会い

クラフトワークが77年にリリースした「ヨーロッパ特急」という曲の一節で彼らがボウイとイギー・ポップに会ったというフレーズが入っている。

From station to station
Back to Düsseldorf City
Meet Iggy Pop and David Bowie

この曲の「From station to station」というフレーズはボウイの76年のアルバム、ステーション・トゥ・ステーションからの引用であり、クラフトワークのメンバーとボウイ、イギーは実際にフランスで出会っていた。

・David Bowie - Thin White Duke Rehearsals /Station To Station

ボウイはステーション・トゥ・ステーションのツアー中、クラフトワークの「アウトバーン」を繰り返し聴いていたという。クラフトワークからの影響は「ステーション・トゥ・ステーション」にも少なからずあったとボウイも発言している。クラフトワークとボウイは「ヨーロッパ特急」の歌詞にあったデュッセルドルフではなくパリで出会っている。ボウイはその時に見たクラフトワークのライブに衝撃を受け、さらに元々クラフトワークのメンバーでそこから派生したと知ったノイ!のセカンドをツアー中にドイツで手に入れている。
クラフトワークとの出会いはあったものの、アルバム「ステーション・トゥ・ステーション」自体はシンセサイザーの使用はありながらも、あからさまなクラウトロックからの影響は出ていない。ボウイ自身もクラフトワークのマネをしても仕方がないと判断し、「ヤングアメリカンズ」以上にリズムに重点を置く事でボウイ流のファンク/ディスコテックなサウンドに重点を寄せていく。強力な曲が揃ったアルバムだったが、ドラッグの影響なのかアルバム制作についてはボウイは「全く覚えていない」と言っている。
そして「フェイム」のヒットからブラックミュージックの総本山と言えるテレビ番組ソウルトレインに出演する。

・David Bowie/Golden Years

この時のボウイは場違いな白人と言う自分の立場と、ある種イミテーションなプラスティックソウルが受け入れられるのかという不安の中で緊張していたという。映像をみるとかちこちに固まりながらしゃべるボウイがいる。ただ観客はそんなボウイに興味津々なのも伺える。

ブライアン・イーノとの再会

同じ頃、ブライアン・イーノは「ステーション・トゥ・ステーション」にある反復に、ミニマルな要素とポップさの中に内包されたアヴァンギャルドな部分に可能性を感じ取っていた。
イーノはドイツに渡り元ノイ!のギタリスト、ミヒャエル・ローターとクラスターのユニットハルモニアと共演しレコーディングを行っていた。このレコーディングは当時リリースされなかったものの、この出会いを含めイーノはボウイと新しいドイツの音楽に入れ込んでいくことになる。イーノはハルモニア/クラスターのメンバーに、彼らの音楽がいかにドイツ国外で熱狂的に受け入れられている事をこの時告げていた。先のジョン・ピールがラジオで紹介していた事や、ヴァージンレコードからアルバムがリリースされていたファウストなど、クラウトロックのバンドの大半がドイツ国内よりもイギリスなどの国々で受け入れられていたが、ドイツ国内ではそれを実感できないほど盛り上がりには欠けていた状態だった。
ボウイはイーノとはロキシー・ミュージックのころから知り合っていたが、75年にリリースされたイーノの「アナザー・グリーン・ワールド」と「ディスクリート・ミュージック」を聴き大きな感銘を受けていた。

アヴァンギャルドではありながら、ポップさも内包した「アナザー・グリーン・ワールド」や、カノンをテープ操作することでポストクラシカルなミニマルな音楽性に仕立て上げた「ディスクリート・ミュージック」の脱ロックなイーノのその姿勢に興味を示したボウイはイーノに接近する。

ボウイのカルトサイド/アレイスター・クロウリーとケネス・アンガー

クラウトロックとは関係ないが、「ステーション・トゥ・ステーション」制作時期のボウイは黒魔術研究化のカルトなアレイスター・クロウリーに傾倒していた。アレイスター・クロウリーは当時ロックミュージシャンの間で流行していて、ビートルズのサージェント・ペパーズのジャケット(特にジョン・レノンがハマっていた)や、レッド・ツェッペリンのジミーペイジなどにも影響を与えていた。(ペイジの黒魔術趣味というのを70年代の雑誌で見かけるが、あくまでもクロウリーは世間的なトレンドのひとつだった。)この時期、そういった流れでハリウッドスターの闇を描いた奇書ハリウッド・バビロンを執筆したカルトな映画監督ケネス・アンガーと接触している。アンガーはアレイスター・クロウリーから影響を受けた作風でも知られ、映画「ルシファー・ライジング」では魔術的な描写が多用されている。

こういった出会いはボウイのキャリアの中では副次的なものでしかないが、ウィリアム・バロウズなどを好む彼のアンダーグラウンドカルトへの傾倒ぶりがよくわかる。「ステイション・トゥ・ステイション」のツアーも終わりを迎えると、ナチズムに関心を寄せていたボウイの興味はヨーロッパへと向かう。78年にリリースされたクラフトワークのアルバム「マン・マシーン」のジャケットに映るメンバーの赤に統一された衣装は、共産主義的ニュアンスとロシア構成主義的なデザインなどを想起させる。ボウイはクラフトワークが持っていた、アメリカやイギリスとは違った中央ヨーロッパの歴史や世界観に大きく感化されたと思われる。
残念ながらボウイはクラフトワークに76年のツアーの前座出演を打診するものの断られてしまっている。ボウイとドイツのミュージシャンとの関係は繋がりそうで繋がらない距離感のまま、進んでいく事になる。

その後、イーノとボウイそしてイギーポップは、トニー・ヴィスコンティをプロデューサーに迎え、フランスでイディオットとロウのレコーディングを開始する。

ステイション・トゥ・ステイション

長尺の曲が占めていて曲数は少ななく地味にうつるかもしれないが、後世への影響も含めターニングポイントとなったアルバムである。ソウルミュージックのミニマリズムと、ロックンロールが調和していてフランツ・フェルディナンドの様なダンサブルなロックバンドの雛形として考えれば昨今一番人気があるアルバムとしてこれを挙げる人は多いと思う。
汽車の音を模したシンセサイザーの音色が延々と鳴り響き、シン・ホワイト・デュークの帰還を告げる前半部分と、タイトなアンサンブルの中で力強い歌声を響かせるタイトル曲「ステイション・トゥ・ステイション」で幕を明ける。
元々プレスリーに提供する前提で作られ(提供は断られた)、ひたすらミニマルなリフレインが印象的なディスコ/ファンク「ゴールデンイヤーズ」。緊張感のあるアルバムの中で穏やかな曲調の「ワード・オン・ア・ウィング」。地球に落ちてきた男のシーンのために作られたものの使用されなかった、ニューオリンズスタイルのピアノで始まる「TVC15」、フェイムをさらにへヴィにしたような「ステイ」。80年代的なAORを先取りした「ワイルド・イズ・ザ・ウィンド」。ポストパンクやニューロマンティクスなどは、ベルリン3部作よりもこのアルバムからの影響の方が強いかもしれない。一部のポストパンクに見られるコールドファンクは、この時期のボウイに通じるものを感じさせる。今聴くべき一枚。


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