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世界で一番好きな(のかもしれない)音楽①/The Shaggs Philosophy of The World

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自分の眼で見ている世界が他の人と同じ物なのか、ふと疑問に思う事は誰しもあるはず(ん?ない?)。自分が眼で見て感じている”赤”が他の人には実は”緑”に映ってるかもしれない。心が落ち着く”緑“が本当は”赤”だったりしたら、”緑”が当たり前と感じていた感覚からすればその景色は狂気に映るのではないか。色弱など身体的な見え方の違いはあるとは思うものの、実際の所、他人の脳みそは覗くことが出来ないので、どういった風に見えているかは分からない。まあ、極端な例なのでそんな事は無いとは思うものの、瞳の色で入ってくる光の量などの違いは実際にはあるとは思うので、目に映る風景は違ってくる可能性はある。
シャッグスの音楽を聴くと、同じ人間なのに何かを聴いて感じ、そしてアウトプットする行為のズレの大きさに面食らう。一体全体何をどうやったらこんなことになるのか?初めて聴いたときには椅子から転げ落ちそうな”ズッコケ感”が真っ先にインプットされる。目の前で起きてる事に脳が追いつかず、兎に角しっちゃかめっちゃかで、あるべきリズムの1234というごくごく基本的なものが抜け落ちてる。ギターも歌も調子っぱずれで、何もかも噛み合ってない。音楽を複数人で奏でるときの共通認識の要素があまりにも欠けていて、言語化出来る感動から程遠い音の塊が雪崩のように押し寄せる。
何度か聴いていると不思議なことに、彼女たちはハーマンズ・ハーミッツの様な音楽をやりたいのでは?という思いに辿り着く。

奇書「ソングス・イン・ザ・キー・オブ・Z」のシャッグスの項でも同じ事が書かれているのだけれど、本を読む前に聴いて全く同じことを思っていた。

元々父の影響で60’sのブリティッシュビートに馴染みがあったので、ハーマンズ・ハーミッツのようなバンドの曲を耳にしていたのも大きいとは思う。だから自然とシャッグスの奏でる音の中にあるものは何となく感じ取ることができた。
問題はここからである。先の眼で見ている世界が人によって異なるかもしれないという妄想が、シャッグスの音に触れた事で、それが耳に置き換えた状態で起きているように感じられた。同じハーマンズ・ハーミッツの音を聴いているはずなのに、出てくる物は全くの別物に成り代わっている。でもハーマンズ・ハーミッツの音が彼方で鳴っているのも感じられる。「脳がバグる」という表現を時折見かけるけれど、これがまさにその状態で理解出来ないのに、片や理解しようとして出来かかってる自分がいる。イギリスのアイドルバンドに憧れて、動機はアメリカでよくある父親が主としてビジネスで始めた事かもしれないけれど、それにしてもタガが外れ過ぎていて常識の枠からはみ出しまくっている。
音楽を聴く上で、歌詞や歌や演奏が感動を誘発する事がポピュラーミュージックの宿命なはずがそれが一切ない。感情は込めてるかもしれないけれど、平坦を通り越してしまっていて拠り所は無い。なのに聴きながら、その奥に潜む情景に勝手にドラマが発生してくる。それが意図してやっているわけじゃなくで、自然発生しているという驚異。「ソングス・イン・ザ・キー・オブ・Z」に書かれているように、レコーディング時に演奏を止めた彼女らにエンジニアが「何で演奏を止めるんだい?」と聞くと、「間違えたから」と返す場面に彼女らの中に何かしらの秩序がある事が示唆されている。他人から見ればめちゃくちゃなのに、当人にとってはそこにはルールがあり、「間違い」という認識もある。めちゃくちゃな様で、彼女たちが見て聴いて感じた世界がそこにある事がよくわかる。出てくる音が何故そうなるのかは分からないけど…。
表面的な支離滅裂さの奥にある音の情景に気がついた人は、頭の中で組み立て直そうとする欲求が生まれてくるのは当然だと思う。実際にアメリカンロックの良心NRBQの面々がこのアルバムを聴いて、彼女らを集結させている。「常識的な範疇」に再構築したらどうなるか?という欲求は誰しも思うところだと思う。

結果的に出てきた音はまるでパステルズの様な音楽で、それはそれで魅力的ではあるものの、支離滅裂なファーストと比べると矮小化してしまった感がある。パズルの様に広がるイメージが、いざピースが合わさるとこじんまりとした世界に閉じ込めてしまった様にも感じられる。それは小説を読んで頭に描いた風景と、映画化されて映し出された風景に大きなズレを感じるように、イメージが具現化された時の失望も併せ持ってしまった結果がセカンドアルバムに起こってしまっていた。ただ、頭の中で鳴っている音を本人を通じて具現化させたいという欲もわからないでは無いし、それをやってしまった事で起きたイメージの矮小化も仕方ないのかなと思ってしまう。難しいところではある。
パズルのピースを頭の中ではめ込んでいくという作業を経て、聴いた人それぞれが受け入れる音の世界が奇しくもシャッグスが鳴らした音によってもたらされる。フランク・ザッパがビートルズよりも重要と言ったか、本当のところはよくわからないけれど、ここにある音に触れることで、饒舌な表現とは真逆の舌ったらずな音楽にも何かしら人の心を動かすものがあるという事に気付く。真っ当なもののさじ加減からすれば、大分倒錯した物の見方ではあるものの、テクニックとは程遠いものの中にも作り上げられたドラマツルギーとは異なる世界が広がっているのを意識させられる。後のイギリスのポストパンク的な楽しみ方といえばそれまでなのだけれど、意識せずにポピュラーミュージックの批評性も内包してしまった彼女らの音楽は、この先時間が経っても解けないパズルとして鎮座していくように思える。そこに愛らしさを感じるか否かではあるのだけれど。
自分が感じた”緑”が、”赤”であると感じている人の言葉に耳を傾ける楽しみを狂気と感じるか、ある種の愛おしさの偏愛になるかのさじ加減が、このアルバムの魅力なのだと再生する度に思い知らされる。そんな愛おしい一枚。カート・コバーンも愛した一枚でもある。

ライト・イン・ジ・アティックからセカンドがリイシューされるようです。



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