【映画】風が吹くとき When the wind brows/ジミー・T・ムラカミ
タイトル:風が吹くとき When the wind brows
監督:ジミー・T・ムラカミ
レイモンド・ブリックスの名作「風が吹くとき」の映画化作品で、37年ぶりの上映となる。37年前の上映時、まだ七歳だったが親に連れられて渋谷に観に行った記憶が残っている。幼い頃は無垢な老夫婦が被爆する可哀想な話くらいにしか受け止めていなかったが、さすがにこの歳になると見方は全く変わってくる。我々日本人は「はだしのゲン」のようは作品に触れる機会もあるため、被爆するという事は体にどの様な影響があるかはしっかり浸透していると思う。ただ第二次大戦後の冷戦構造が生み出した西と東の緊張については、別に学ばなければいけないため、小学生低学年にはそこまでの理解は及ぶことはなかった。
改めて鑑賞して目の当たりにしたのは80年代の冷戦末期の状況でも、核戦争という恐怖の強迫観念は根強く残っていた事がよく分かる。当時の情勢はソ連がアフガン侵攻していた頃合いという事もあって、当然緊張は高まっていた時期に当たる。その数年後にペレストロイカからベルリンの壁が崩壊し、ソ連も崩壊した後は冷戦も終わったことでこうした緊張は過去のものになったと思われた。しかし、昨今のロシアによるウクライナ侵攻と、イスラエルによるガザ侵攻とイランとの軋轢は、結局の所、冷戦は終わっておらず、その時の火種が発火しそうになっているのは多くの人が感じている現実だと思う。まさか今この時代に冷戦が蘇るとは思っていなかったが、逆にこの三十年余りの年月がたまたま比較的穏やかだっただけだったとも感じられる。
この映画に起きていることが今起きてもおかしくない状況だからこそ、この映画の真にクリティカルな訴えの有効性が変わらず揺るぎないものになってしまっているのは皮肉な面でもある。あの頃と同じ緊張感が日に日に強まる不安や恐怖は、まだ核爆弾が投下されていない状況ではあるものの、ガザやウクライナの状況を見ていると他人事ではない。さらにもし彼の地に原爆が投下されたら、より酷い状況へと突き進むのも想像できる。
お上に逆らうことのない国民の姿というのも、昨今のポピュリズムと新自由主義と重なってくる。主人公の老夫婦が愚直なまでに国の言うとおりにしている様は、強権的な権力者に無自覚に従うポピュリズムとオーバーラップしてくる。かつての太平洋戦争時の日本国内もしかり、全世界的にポピュリズムが台頭している最中で、こういった国民の姿勢は権力者にとってどれだけ都合が良い事なのかが実直なまでに描かれていた。美大に進んだ息子は、恐らくリベラルな視点を持っていて、ポピュリズムに対しての冷笑と諦めから、原爆投下されれば皆死ぬと達観してしまっていた様にも感じられる。少ない登場人物の会話の中でこれだけ状況を端的に表現出来るブリックスの視点は凄い。ひと目で崩壊したと分かる日常を変わらずに生きようとしている姿は、ある種の滑稽さを持ちつつ、普段通りの生活が終戦の後に戻ってくると信じる様は無垢を通り越して悲哀を生み出す。
汚染された雨水や、空気中に充満する放射線など目に見えないものに対する理解は、知識が補うしか方法はない。けれども、どうにも救いがない状況にはなす術はなく、簡便なシェルターが何も救わないのは、救いのない終わりからも滲み出ている。
今現在であれば、広島と長崎の原爆投下を超える威力があるのは確かだろう。老夫婦が住む家はロンドンの南に位置しているらしいが、映画の様に都心部に投下しても広い範囲で被爆するかもしれない。使われる事のない武器の見えない威力を可視化したものと捉える事も出来る。そう考えると、食い止めなければいけないのは、まずは戦争を起こさない事というのが第一に優先されるのではないだろうか。
日本のアニメーションに比べれば、造りはいささかぎこちなさはあるが、ミニチュア実写を交えた撮影はかえってリアリティが高まる。平穏な生活と、風爆で散らかった家の対比はアニメーションだけで描かなかった画の強みがある。
今まさに大きな戦争へと発展しかねない状況と、この映画のもつ戦争の悲惨さは、今このタイミングで観るべき傑作だとつくづく感じられる。
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