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街角クラブ〜ミナスサウンド③ 独裁政権下による検閲 70年代半ばのミルトンについて

軍事独裁政権による歌詞の検閲、表現の規制

1964年に勃発した軍事クーデターの影響で、ブラジルは軍事政権が成立。緊縮政策などの影響もあり国内の多くの企業が倒産し、国民の財政にも大きく影響を与える。世の中の流れから牧歌的なボサノーヴァが衰退し、トロピカリアらMPBが台頭。その後、軍事政権が終わる1985年までは大統領を選出するにも民主的な投票は行われず、80年あたりを境にミルトン・ナシメントは国内の政治に希望を見出せなくなる。
1960年代後半になると軍事独裁政権は芸術家への検閲を強め、カエターノ・ヴェローゾやジルベルト・ジル、ガル・コスタらトロピカリア勢はロンドンへ、シコ・ブアルキはイタリアへと亡命。
そんな最中ミルトンは亡命を拒みブラジル国内で活動を続けていた。ミュージシャンの活動も検閲の対象となり自由な表現が出来なくなっていた。
音楽業界全体に圧力がかけられていた時代でもあったため常に逮捕される危険が常に孕んでいた。70年代初頭には亡命していた人達もブラジルに帰国していたが、軍事政権の監視のもとで活動しなければならない状況でもあった。
亡命していた頃、ジルベルト・ジルはロンドンの生活を満喫していたものの、まったく肌に合わなかったカエターノは常に帰国したがっていた。
1972年、ブラジルに帰国後のカエターノ・ヴェローゾはキャリアの中でも一番アヴァンギャルドな「Araça azul」を録音する。ミルトンとカエターノはお互いの才能を認め合っていた仲で、このアルバムではクルービ・ダ・エスキーナに収録されていた「Cravo E Canela」を土着的な形でカバーしている。

ミルトンとカエターノは後にアルバム「Minas」で共作することになる。
この時期は街角クラブの面々のリーダー作が殆どなく、エアポケットのような状態になっている。コンスタントに活動していたミルトンは、この頃からブラジル国内だけでなく国外での認知も上がっていくことになる。
そんなブラジル政治の季節真っ只中の1973年から1976年までのミルトンのアルバムを辿っていきたい。

・Milagre Dos Peixes(1973)

このアルバムでは歌詞が検閲対象となったため、タイトル曲と付属のボーナスep(10〜12がそれにあたる)に収録されたネルソン・アンジェロとの共作「Sacramento」以外はすべてスキャットでの表現となっている。街角クラブの面々とナナ・ヴァスコンセロスが参加。くぐもった音像の中に荒々しいナナのパーカッションと掛け声が駆け巡り、ミナスの森の中にいるような錯覚を覚える。
ローの不在も関係するが「Clube da esquina」にあったポップさやサイケデリックな感覚は若干退行し、ミルトンが持つ生々しい表現が前面に現れている。南米幻想文学にも通じるような幻想的なミルトンの歌声。感情の不条理を歌詞だけでなく、音や歌声で表現することがミルトン・ナシメントという音楽家の本質だと言える。
因みにアップルミュージックに登録されているタイトルは誤りがあり、正しくは以下の通り。

収録曲
1.Os Escravos De Jó
2.Carlos, Lúcia, Chico E Tiago (Eu Sou Uma 3.Preta Velha Aqui Sentada Ao Sol) 
4.Milagre Dos Peixes 
5.A Chamada 
6.Pablo Nº 2 
7.Tema Dos Deuses 
8.Hoje É Dia De El-Rey 
9.A Última Sessão De Música 
10.Cadê 
11.Sacramento 
12.Pablo 

・Milagre Dos Peixes Ao Vivo(1974)

トニーニョ・オルタとソン・イマジナリオ、さらにオーケストラをバックに従えたライブ盤。ライブは好評で、内容もアルバムよりもワイルドな演奏を聴くことが出来る。このライブで初めてつば付きの帽子を被り、以後ミルトンのトレードマークとなる。初期ミルトンの生々しい姿を捉えた名ライブ盤。

・Native Dancer(1974)

/Wayne Shorter

1972年、「Clube da esquina」のライブの時に知り合ったウェイン・ショーターからレコーディングの誘いの連絡が入り、二度目のアメリカ録音が始まる。
アメリカでは1964年のスタン・ゲッツとジョアン・ジルベルトの「Getz/Gilberto」以降ブラジルのミュージシャンがアメリカに渡ってレコーディングしていたことと、70年代のフュージョンブームの影響や、1972年のチック・コリアの「Return to forever」に参加していたアイルト・モレイラとフローラ・プリン、そして1973年にアルバム「Deodato」が大ヒットしたデオダートなど、アメリカ国内で活躍するブラジルのミュージシャンの活動が続いていた。このアルバムはウェイン・ショーターのリーダー作だが、全9曲中の半数以上がミルトンで残りはウェイン・ショーター、一曲ハービー・ハンコックが作曲した曲が並ぶ。
ブラジル勢からはホベルチーニョ・シウヴァとヴァギネル・チソを帯同し、残りはアメリカのミュージシャンとアイルト・モレイラが加わっている。
ミルトンの曲は次作「Minas」に収録される「Ponta de Areia」以外の4曲は再録。ここでの録音はブラジル録音での森の中のような雰囲気から、抜けの良いアメリカ西海岸のサウンドに仕立てられている。

・Minas(1975)

「Paula é Bebeto」を歌う子供の声から、ノヴェーリ作のアコースティックな「Minas」で幕が開ける。歌詞への検閲は前作の時期よりも弱まったこともあり、アルバム全編に歌詞が復活している。
このアルバムから録音のレベルがそれまでと大きく飛躍し、ミックスも非常にバランスが良く、この時点でのミルトンの最高傑作となっている。
ネルソン・アンジェロの「Simples」のように不協和音を奏でるオルガンをバックに、エフェクティブなサックスが鳴り響くECMのような音像は、サイケデリックな酩酊感とは違った広がりのある表現を獲得している。
個人的にはトニーニョ・オルタ作の「Beijo Partido」がアルバムの中でベストトラック。この後の章でも触れるがナナ・カイミや小野リサらが素晴らしいカバーを残している。南米幻想文学的な不条理さを称えた名曲であり、名唱、名演である。ミルトンのファルセットは狂おしい感情が端々から伝わってくる。
「Gran Circo」での壮大さを感じさせる演奏は、後のアントニオ・ロウレイロにもつながっていくようにも感じられる。
カエターノ・ヴェローゾを共作者に迎えた「Paula é Bebeto」は、ミナスで知り合った十代の若い恋人たちについての曲。その2人は破局してしまったものの、その思い出を瞬間冷凍するかのようにミルトンは曲として永久保存を試みた。

・Geraes(1976)

ミルトンは以前からファンだったアルゼンチンのメルセデス・ソーサと出会い、スペイン語曲も織り交ぜ、より広い表現を目指す。前作でのMPB色が若干後退し、アコースティックな演奏とストリングスが前面に押し出されている。
「Courage」や「Milton Nascimento(1969)」をアップデートしたような内容で、落ち着いた雰囲気の曲はが大半を占めている。

・Milton(1976)

ミルトンはアメリカでの3度目のレコーディングに挑む。欧米でのミルトンの需要の高まりがあり、英詞を含めた曲が並ぶ。
今作ではトニーニョ・オルタ、ホベルチーニョ・シウヴァ、ノヴェーリ、ウルグアイ出身ののウーゴ・ファットルーソらをバックに、ウェイン・ショーターが加わっている。
このアルバムはアメリカ西海岸のサウンドで仕立て上げられながらも、英語詞であっても変わらぬミルトン・ナシメントというミュージシャンの姿を的確に捉えている。
欧米諸国でも太刀打ちできるポピュラリティーをもつ音楽家として、揺るぎない表現を確立したアルバムとも言えるだろう。

次の章では同時代の街角クラブの面々が参加したアルバムと、カイミ姉弟の足跡を辿っていこうと思う。



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