窓際の草原に吹き抜ける風。

ぼくはほんとうは出かけたい。

だってこんなにも太陽が、おひさまがポカポカきらきらしてるから。

こんな日はもはや家にいちゃもったいないんじゃないかって、出かけなきゃいけないんじゃないかってプレッシャーを感じるくらい。

でも可笑しいのが、ぼくは朝から「今日はいい天気だからでかけようかな(出かけなきゃな)」
なんて思っていながら、一向に外出しないこと。

理由はたぶん単純で、
ぼくは生まれてからある程度の背丈になるまでの今までの人生の大半を田舎で過ごしてきた。

そしてその間はずっと、自力で行けるのは要するに人力でいける距離の中、歩きか自転車ということ。
そしてその範囲内にあるのは森とかせいぜいローソンとか、その程度の施設で、
小学生までは友達と遊んだりしていたけど、
中学になってからはもうほとんど外で誰かと遊ぶことはなくなって、

要するに僕は晴れた日も家の中にいたんだと思う。
家の中で、アイスを食べながらお姉ちゃん二人がドンキーとかカービィとかをあーでもないこーでもないと戦略を立てながら悪戦苦闘しているのを
少し離れた後ろの食卓から、
じぶんは気ままに絵を描いたり、ゆる〜く学校の宿題を広げたりしながら眺めている。

そんな感じで、それがぼくの夏の晴れた日の過ごし方のベースだったのかもしれない。

だから、いまも多分こんなに晴れているのにぼくは家の中の窓際に座って窓から吹く爽やかな夏の風を感じながら、絵を描いたり、字を書いたりしているんだと思う。



ひとはそんなに変わらない。

環境が変わるとまるで別人のように冷たくなったり、優しくなったりするけれど、

きっとそれはただ、その人を構成する要素のなかで、あっちの要素が強く出たり、はたまたこっちの面ばっかりが見えたり、

色んな社会の場面で表に見えるのは、きっとその人のほんの一部であり、でもぜんぶでもあって、

すごくニュアンス的で何言ってるのかわからなくなってくるけど、

まあなんというか、ぼくはなんどもじぶんがすごくまるっきり変わってしまって、

「すっかり汚れてしまった」

なんて思ったことが何度かはあるけど、

でもぼくはいまはここにいる。


いまここにいる僕は、

小学生のときより確かにいろんなものを見て、

帰宅後にディズニーの世界にまるっきり浸って「自分もいつか」なんて思いながらプリンセスになりきって熱唱していたときとは、
たしかに違うけれど、

それでもたぶん、

そう変わってないんだと思う。


だって変わってたらもっと上手に外出できてると思うから。

何が悲しくてこんな晴れた夏の初めの絶好の散歩日和に両親から「散歩行ってくるけど、行く?」
なんて最高の提案をされて内心「え、さんぽ…おさんぽか、…いいな、…どうしようかな……」
なんて思ってまで、
それでもなんかそれを断って、今僕はこうして窓辺で、そう室内で字を書いているわけである。(正確には打っている。そう携帯、うん電子機器を親指で擦っているのである。晴れた日に室内で。)


もし人間が本質から簡単に変わってしまうのなら、専門の2年間でいろんなものを失ったことで人間の本質が汚れて変わってしまうのなら、


きっと今頃おさんぽイテルハズダヨっ!

だっておひさまはダイレクトだよ?!
そうお外に出さえすればね!!☆

ほんの一歩。

サンダルでもいい。

てーしゃつと短パンでもいいんだおお姉ちゃん


でもね、出ないの。

窓際が気持ちいいから。


窓際という安全な特等席で、周りの目を気にせずに自然のきもちい風だけを感じてられるのが、

一番好きだから。

こればっかりは仕方ない。


だって小さい時からそうしてたせいで、
きっとからだが覚えてるから。


変わってないの。

ぼくはきっと、変わってないんだよ。


「変わってしまった、すっかり汚れてしまった。」


たしかにそう思ってたときのぼくは道を踏み外しかけてたんだと思う。それはそう。
(だって食べてもいないリンゴを捨てそうになったことが、一度あるから。そんなの以前の僕なら迷うまでもないはずだから。
でもあの時ぼくは、それが分からなくなりかけていた。
簡単にその場のメンツの、その世界の常識に流されそうになっていたんだ。簡単にね。
今はマックのアイスティーだってなるべく飲み干して帰るようにしてる。)


家族や、野田クリスタルや、モダンタイムスや、ランジャタイや、
公園の緑と太陽がなかったら、

あの時お姉ちゃんが電話でやさしくおぼつかない言葉をじっくり聞いてくれなかったら、

ぼくはまだ濁った深海の底の方で、道を彷徨って帰れなくなっているままだったかもしれない。



変わっちゃいなくても、帰れなくなってたかもしれない。


そう思う。

それは怖いね。


でもそれでも、変わっては、いないんだと思う。


だから濁った深海では息ができなくて、
諦めて死んだように泳いだって、

イキイキなんて、
ワクワクなんてしない。

絵も、歌も、なにをしても心がないみたいに何も感じない。


ぼくはこんなふうに字を書いたり、絵を描いたり、歌ったり、演じてみたりするのが好きで、
それに救われてきたし、信じてた人だけど、

そんな僕でも思い知った。


ほんとに行き詰まって八方塞がりじゃなくても八方塞がりにしか感じられないくらいダメなときは、

音楽は届かないし、

かろんじてお笑いが今を忘れさせて痛みを麻痺させてくれるくらいで、

でもそれは鎮痛剤みたいなものに過ぎなかったりして、

結局最後はどうしたって生の人間が助けてくれなきゃどうにもならなかった。


それは幼少期から芸術のちからを信じてきた僕にとっては、パラダイムシフト?みたいなものにも近いくらい、
なんだか現実的で、失望的でもあった。


でもあの時、応急処置に過ぎなくても、一時的に忘れさせてくれる鎮痛剤だったとしても、

音楽やお笑いや漫画がなかったら、


野田クリスタルが、

ランジャタイが、

モダンタイムスがいなかったら、


ぼくはきっともっとずっと、狭い箱に缶詰で、狭いせまい視野の中から抜け出さずにいたんだろうって、
そう思う。


ぼくはいまは思う。


人間によって負った傷は芸術だけで完治させることはできない。

虚しく切なくもあるけど、でも実際ぼくの場合はそうだった。


でも芸術がなかったら、きっともっと痛みは痛みのままで、ダイレクトに、きっと四六時中痛みを忘れられない。
治るとは限らないし、多分完全に治すことはできないけど、上手く作用すれば
無いよりはあった方がずっとマシ、痛みを忘れさせてくれる。(使い方によってはさらに痛くなるけど)


「芸術が私を救ってくれました!!」

なんて晴れ晴れと言い切れたら感動的なのかもしれないけど、
映画と違って、いまの僕はそうは言い切れないし、そう言い切ったって、それは正直嘘にもなってしまう気がする。

でもそれでいいと思う。少し寂しいけど。

でもそうなんじゃないかなって、
今のところはそう思う。
またいつ考えが変わるか分からないけど。





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