Disecting Neversista(中編)

※本記事は、同人ノベルゲーム「図書室のネヴァジスタ」のネタバレを多く含んでいます。閲覧の際はご注意くださいませ。

⑥ネヴァジスタがプレイヤーに与える傷
 心に傷を負う、という表現を、感想の中で書いていらっしゃる方がたくさんいる。

 わかる。すごいわかる。

 だから改めて、どういう傷を負うんだろう?ということについてちゃんと考えてみたいなと思う。主に私が思いついたのは以下の3点である。

 まず1点目、人物の言動が非常にリアルで生々しいこと。

 この作品は率直に言って明るい話ではない。大団円ENDはちゃんとあるし、最終的には光の世界に向かっていくのだけど、そこまでの過程がものすごくつらい。なんてったって、分岐ひとつ間違えただけで推しが死ぬ。この恐怖はなかなかにすごかった。自分が選択をミスした故に、子どもたちがネヴァジスタに向かっていってしまう。(私はこういうタイプのゲームを初めてやったので余計にビビりました)

 その道のりは非常に精緻で、一見BAD行きとは思えないレベルでよくできている。例えば、ティンカーベル行きの分岐を取り上げてみると、「何があっても必ず俺を信じて」という久保谷瞠に対する返答として、  

「信じるよ」
「約束はできないよ」  

という選択肢になっている。嘘だろお前、そこ選択肢にするの、と喚き散らしながら非常に難しい選択肢であると感じて、かなり迷ったのを覚えている。

 この問いを問いかけられたのは教師であるマッキーだったから、教師として瞠くんのことを思うなら、後者が正解だろうなと私は思う。実際に後者を選ぶと、マッキーのかなり心に刺さる言葉を聞ける。教育者として向き合うのなら、目の前の子どもが「何があっても自分を信じて欲しい」と言ってきたら、尋常ならざる事態や背景の存在を想像して、自分と子どもの適切な距離感を見定めるのが大切だ。

 けれど後者を選んだ場合、正規エンドには辿り着けない仕様になっている。ティンカーベルという、あまりにも悲しいエンドに向かってしまうのだ。しかもこの分岐で間違えてしまったらプレイヤーにはもうどうすることもできない。走り出すトロッコを見つめるように、黙ってエンドを待つしかないのだ。私はここで1人の学習者として非常に悔しい思いをしたので、機会があればティンカーベルについて真剣に考える記事も書きたいと思う。

 長くなったが、つまり言いたいことは、ここに、人生のリアルさが絶妙に表現されている、ということだ。例え作中では悲しいエンドに辿り着く選択を選んでも、それが彼らの人生のひとつの正解であるように見えるのだ。そのように物語が描かれている。この過程で読み手は、正しいと信じて歩いた道が報われない結果を招くことを知って、一種の絶望感を抱く。これが心に傷を与えるのかもしれない。

 続いて2点目、もはやこの作品の名物とも言える個人ルートの結末が与える傷の大きさは計り知れない。察しのいい方なら大抵1人目のTRUEで、あ、これもしかして他のルートも……となる。

 この結末の何が読み手に傷を与えるかと言えば、「子どもが諸々の問題に向き合い、前を向いてネヴァジスタを去ろうと、大人になろうとするその時に清史郎によってネヴァジスタに連れていかれる」ということだ。

 このことについては、絶望だと見る人と、幸福だと考える人のどちらも見たことがある。私は子どもの視点に立てなかったので前者である。

 明日を夢見ることを、誰かに許されなければならないのだろうか。清史郎には、友人をネヴァジスタへ連れて行く資格があるというのだろうか。行き場のない悲しみに視界も呼吸もふさがれて、それによって手ひどく傷ついた記憶がある。

 個人ルートの最後は、自死ではなく殺害である。これがとても、私には悲しかった。清史郎の正体がわからなくて戸惑ったし、後述する(後編へ)が、子どもの死生観がわからなくなって1人で深夜に大混乱に陥った。  

 そして3点目、ネヴァジスタを探す子どもたちや彼らのそばにいる大人たちの姿に、過去の自分を見出すことによってできる傷だ。これは語るまでもなく、読み手それぞれが自分の思い出の中を彷徨いながら、胸の内に傷を抱えていることだろう。

 けれどもこの点に関しては、よかったなと思うこともある。詳細は⑧にて述べる。  

⑦原風景としてネヴァジスタを愛する
 前編でも述べたが、死ににさえいかなければ大切な居場所になりうるのがネヴァジスタだ。大切なのは、手放すことだ。なかったことにする必要はない。

 大人になったときに、子どもの頃に自分を支えてくれた大切なひとつの原風景として思い出せるようなものになれば、それは素敵なことだと思う。私なら、大好きな誰かと一緒に過ごしたという特別で大切な思い出と心のつながりを愛することを、許されたいと思う。  

※原風景
→ 人の心の奥にある原初の風景。懐かしさの感情を伴うことが多い。また実在する風景であるよりは、心象風景である場合もある。個人のものの考え方や感じ方に大きな影響を及ぼすことがある。

⑧何が救いになるのか
 この作品に出会ったことで救われたという感想も多く聞かれる。これは作品の構造として、生きることを、明日を夢見ることを、大人になることを肯定されるように出口が設定されていることが大きいように感じる。  

 この設計のおかげで、過去の自分を見出して負った傷を肯定してもらえるような気持ちになる。子どもの頃に水に溺れるような苦しみを味わい、傷ついた過去によって今でも苦しめられているとき、きっとこの作品は救いをもたらしてくれる。苦しんでいたことは悲しいことだけれど、それも含めて自分の歩いてきた道だ。そういう道を通ったとしても、希望を持ったり、明日を夢見たり、幸せになろうと歩き始めたりすることを、決して否定されない。もちろん、自分の持つ傷跡も、否定されない。私はそういうところがとてもありがたいなあと感じた。  

 これは付け加えになるが、私は、人を救うのは言葉そのものではなく、自分とその言葉の間に結ばれる線、言葉を発した人やものとの関係性だと思っている。図書室のネヴァジスタにおいて、物語に綴られた言葉そのものよりもその言葉を通して見たものを、思考の道筋を経ることによってその言葉が胸に刻まれていく。ここに私は、この物語と読み手としての自分という1人の人間との間に、線が結ばれるのを見た。これがきっと、私を救ってくれているのだと思っている。

(後編につづく!!)

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