Disecting Neversista(後編)

※2020/05/16 追記

※本記事は、同人ノベルゲーム「図書室のネヴァジスタ」のネタバレを含みます。閲覧の際はお気をつけくださいませ。  

⑨死生観
 死生観はとても大切なものだ。どういう風に生きたいだとか、何を大切にしたいだとか、死をどう定義したいだとか、そういう考えは、とても大切なものなのだ。なぜなら、いざというときに自分の根幹を、支えてくれるものだから。

 生きていく中で死について考える瞬間は絶対にある。一定の年齢に達せば、身近な人の死を知る機会もある。そのたびに、人間はいずれ自分も死ぬということを、割としっかりと自覚していく。そういうときに、生きるとか死ぬとかいうことに向き合わなければいけなくなる。  

作中で賢太郎が、子どもたちの死生観について以下のように言及している。

未成年は死に近い
死に万能感を感じるんだ
挫折や 敗北にまみれ
自分が理想の姿でないと思った時
大人なら妥協や 諦観でやりすごせる
惨めさを享受して 前進することも出来る
挫折や敗北の 経験があるからだ
だが 挫折や敗北の経験が
少ない子供たちは
自分の理想像が 崩されることを恐れ
想像もつかない 敗者の道を恐れ
死を万能化する
理想的で潔癖な姿のまま
惨めさを知らずに 消滅できるからだ

 子どもたちにとって、死は出口なのだろう。自分の在り方を認めたまま、それを守ったまま、苦しみから逃れるための。彼らは傷つきすぎていて、助けられて、愛されなければならなかった子どもたちだった。それなのに、自分の足だけで、瀕死の状態のままで、生きていたのだ。彼らの死生観を、誰がどうやって、変えてあげられると言うのだろう。

 清史郎は、友人たちのことを確かに思っていて、その死生観を肯定していた。彼自身も、大人になることを拒んでいた。その肯定が、彼らを救った。救った結果が、ネヴァジスタへ行くことであったとしても。彼らは確かに救われてしまって、でも、大人からしたら、そんな救われ方を、良しとするわけには、いかなくて。あまりの苦しさにどうしようもない。

 これは、多分私が負っている傷のことだけど、若い人が1人で死んでしまうということは、現実に起こり得る。実際に、そういう人を知っているから。自分と繋がりがあって、優しくしてもらった記憶を大切にしていた相手を、電話口でそんなふうに亡くなったとだけ告げられた時の気持ちを、どう表現したらいいだろうか。人が死ぬというのは、そういうことだ。簡単に、飲み込めるようなことじゃない。

 私が感銘を受けた死生観に、以下のような言葉がある。  

「たった一度きりの死は、大切なものなんだ。誰かを殺してそれを使いきった者は、永遠に、自分を殺してあげることができない。
人間として、死ねないんだ。」  

 奈須きのこ先生の「空の境界」からの引用である。大変すっきりした考え方で、自分の中で納得のいくところが多かった。  

 なぜ人を殺してはいけないのかということに関わる倫理観がここにあらわれているような気がする。  

 もちろん死生観は人によって違うだろうし、これはあくまで私が納得しているひとつの価値観に過ぎない。それでも清史郎、君がしたことを、私はどう受け止めたらいい?肯定も否定もできなくて、わからないよ、と言うことしかできない。そんな自分がはがゆくて、情けない。  どうしたら、子どもたちをネヴァジスタに連れて行かれないようにできるのだろうか。わからない。正しい答えなんか、いつだって、どんなに考えても、出やしない。

⑩大人になってから出会った者として
 プレイ当初の私は成人済みだった。ついでに言うとほぼ1ヶ月近くに及ぶ教育実習の直後でもあった。「子どもを見る大人」という立場を自分の中に色濃く持ったままネヴァジスタへと向かったということだ。だから余計に私は、子どもたちと同じ視点に立てないままプレイしてしまったような気がする。物語を追って痛みを感じるたびに、自分の記憶の中に、過去の思い出としての子どもの自分の姿を探すことしかできなかった。そうするたびに、自分が子どもだったあの頃を、もうすでに失ってしまっているのだと気づいたのだ。

 自分の専攻学問のこともあって、プレイ直後の私の関心は専ら「彼らをネヴァジスタに向かわせない方法」を探すことにあった。子どもたちを連れて行こうとする清史郎を止めたかった。あの子たちに死んで欲しくなかった。自分が学んできたすべての知識と技術を総動員して、彼らを死に向かわせない方法を考えていた。ひとりひとりの状況をケーススタディとして検討し、いかなる支援策が可能かを考えた。それは今でも変わらないけれど、つまりは、私はもう大人という視点からでしか彼らを見られないということなのだ。  

 ただそれだけの話なのだけれど、これもこう、どういう視点で幽霊棟の子どもたちを見ているのかということは、人によって違うと思う。プレイしたタイミングとか、年齢とか、そういうもので結構変わるのだろう。  

⑪ネヴァジスタを手放すために
 ネヴァジスタは手放さなければ大人になれない。過去に置いていかなければいけない。

 幽霊棟の子どもたちは、みんな、家庭の中に深刻な不和と傷を抱えていた。つまり、AC(アダルトチルドレン)に該当する子がほとんどだった。ここで、ACのメンタルケアミーティングで唱えられる平安の祈り、というものを引用させていただく。  

God, grant me 
the serenity to accept the things I cannot change,
the caurage to change the things I can,
and the wisdom to know the difference.   

 これはとても大切な祈りだと思う。今ある自分を受け入れること。その中で、もし自分に変えられることがあるのなら、変えていくこと。そして、変えられるものと、変えられないものの違いを、自分でよく考えること。  

 人が置かれた状況というものは本当に様々だ。苦しんでいるとき、そこから脱しようとして、より良くあろうともがく。  

 子どもの頃の私に、ネヴァジスタに行こうよと言ってくれる誰かがいたなら、行ってしまっていたかもしれない、と思うような案件は、一応、私にもある。  

 最近ようやく自分の苦しさとの向き合い方を少しずつわかってきて、私の話を聞いてくれた人に、こんな言葉をもらったのでここに書いておく。  

「自分のことは、自分がわかってればいいよ。」  

 自分の苦しさをわかってほしいし、聞いてほしい。でも、他人に自分をよくしてもらえるように期待をかけることは、とても不確かなことだ。もちろん他者の助けで良くなることもあるだろう。でも、よくならなかったときに、他者を頼り尽くしてことごとく失敗し、自分の身ひとつしかないという状況になったとき、そのときこそ、きっと終わりを迎えるしかなくなるような予感がする。  

 だって、自分のことを本当にわかるのは、自分だけだから。自分を本当に生かすのは、自分の心だから。  

 自分がわかってればいいと言われたときはとても怖かったし、幽霊棟の子どもたちに同じことを言える自信は、あんまりない。いや、彼らはとうにわかっているのかもしれないな。わからない。大人に頼ることをとうに諦めている子どもたち。でも自立しているとも言えない子どもたち。  

 長くなってしまったけど、「ネヴァジスタを手放す」ということは、この感覚に近いような気がしている。  

自分の人生を歩くのは自分でしかなく、
人生の終わりを迎えるのは自分でしかなく、  

 結局、全部自分のことなのだ。何かに引き寄せられて生き死にを決めてしまうのは、なんだか、とても悲しいことのような気がする。  

 平安の祈りを唱えながら、今日も、誰かとわかり合えない孤独を知って、誰かがそばにいる奇跡を祝って、自分の足で歩いていく。そうして人は、少しずつ大人になるような気がする。  

 ファンタジスタはネヴァジスタにさよならと手を振り、子どもたちは大人になる道を選んだ。それはこの物語を読み終えた私にとって、いちばんの救いだったのだ。  

⑫おわりに
 大変長くなってしまった。いろいろぐるぐるこねくりまわしてはみたものの、書いても書いても形になりきらない思いがたくさんある。これでいいのかわからない。そもそも正解なんてたぶんないんだけど。だって人生が描いてある物語なんだし。それがこの作品のすごいところだ。  

 言葉が拙いせいでもしかしたら誤解を招いているかもしれないのだけど、この作品の登場人物たちの生き方を否定するつもりはない。それは絶対になくて、ただ、私が感じたことを言葉にしてみたというだけだ。解釈違いを感じてご不快になった方がいたら申し訳ない。  

 個人のまとまらない思考をぶつけただけの文章をここまで読んでくださった方、あんまりいないとは思うけど、もしいらっしゃいましたら、心から感謝申し上げます。ありがとうございました😊

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