習作⑥「創作は僕を救わない」

7月24日 天気:くもり、蒸し暑い

 本を読み、感想を言葉にすることは僕が人生において大切にしていることだ。しかし、どんなにインプットとアウトプットを繰り返したところで、いつも心の中にぐちゃぐちゃになった何かがそのまま残っていて、僕の心の中がちっとも満たされない感じがする。

 自分のことを自分の言葉で、自分のこととして表現することがこわい、こわいというか、許されないことだと思っていた。

 僕のことを、僕のことのままで話そうとして、聞いてくれる人はいるだろうか。不快にしてしまうだけなのではないだろうか。僕の思いを懸命に話したところで、その意図が正しく伝わり僕を理解してくれる人はいないんじゃないだろうか。世界のどこを探しても。それは絶望的な孤独であり、恐怖だ。「君のことが不快だ、君のことを理解できない」そんな言葉を聞くくらいなら早く死んでしまったほうがマシだ。

 だから、僕は僕のことを僕の言葉で語ることが、すごくすごく、苦手だ。

 だから小説にして、僕じゃない人間に全て背負わせて、その人の口やその人の行動で語ってもらうことで、僕が本来自分で吐き出すべきものを肩代わりしてもらっている。もしうまく伝わらなくても、その人が口下手だったからとか、伝わりにくい行動を取ったからだとか、そういう言い訳ができるでしょ?僕のせいじゃないって、言えるでしょ。

 僕にとって創作とは、そういう行為だ。セーフティネットを張り、自分を守る。自分の本当の痛みに触れられることから、逃げるように。とても、卑しいな、と思う。



 多々野さんという友人ができたけれど、彼はよく、「それで、君はどう思ったの?」「なぜ、そういう気持ちを抱いたの?」と僕に聞いてくる。

 僕はその瞬間、ひどく、言葉に詰まる、小説みたいにうまく話せなくて、たどたどしく、わけのわからない言葉を紡ぎ、ごまかし、恥ずかしくなり、自分に失望しながら、それでも穏やかに僕の言葉に頷く多々野さんが聞いてくれるから、懸命に話す。

 そうして話している間、僕はひどく苦しくて、涙も出るし、クールじゃないし、情けないし、こんなだからふつうのひとみたいになれないんだ、と自分を蔑む。けれど、話した後に多々野さんが「そうだったんだね」と言うだけで、それ以上何も言わないから(つまり、評価とか、解釈とかを、一切してこないってこと)、僕はなんだか虚空に向かって一生懸命話したような気になって、ふと、気が抜けるんだ。
 でもその気の抜ける感じは嫌じゃなくて、なんていうか、うまく言えないんだけど、僕に不思議な癒しをくれる。

 まあただそれだけなんだけど、僕にとっては重要な気づきなのかもしれない。まだ、もしかしたら、の段階でしかないけど、もしかしたら、小説を書くということは僕を全く救わなくて、自分の言葉で自分のことを語らなければ、僕自身の想いは何ひとつとして、すくいあげられないんじゃないかって…。
 本当に?本当にそうなのかな、僕にはまだよくわからないけど、本当は、そうなのかもしれない。

 今日は日中暑かったから、夜が恋しかったな。とても過ごしやすい。ひとりの夜は、僕の言葉を誰も聞いていないし、誰も、僕を見ていないから。

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