5番から2つの『悲愴』へ(MUSE2023年4月号)

 チャイコフスキーの5番がなぜ前後の4番や『マンフレッド』『悲愴』に比べドラマ性の薄いものになったのかは、特に第1楽章に主因があると感じます。前後の3曲に比べ5番の冒頭楽章は著しくなだらかな運びで、続く第2楽章や第3楽章より大規模であるにもかかわらず、コントラストの点ではそれらと大差ないという非常に珍しいものになっているのです。確かに本当の葛藤を冒頭楽章ではなく終楽章に配したのはベートーヴェンの5番の最大の特色ですが、あの曲の場合は冒頭楽章自体も実に激烈な性格のもので、それを第3楽章と終楽章の落差を極限まで大きく取ることで越えるという構成上の力業で乗り越えたゆえにあれほどの効果を発揮しえたのでした。それに対しチャイコフスキーの5番では単に4つの楽章の落差の大きさが控えめというに留まらず、最も沈み込むのがベートーヴェンでの第3楽章ではなく第2楽章であり第3楽章は第2楽章からフィナーレに向かう上り坂の通過点というべきものになっているため、落差のエネルギーを活かすのとは真逆の結果に繋がってしまっているのです。
 ならばチャイコフスキーほどの作曲家がベートーヴェンの曲の構成を見誤ったのかといえば、そんなことは決してないはずだと僕は思います。それをそのままなぞってしまえば盗作めいた曲にしかならないこともあったでしょうが、そういう構成から生じる効果なり脈絡とでもいうべきものがチャイコフスキーの悲観的な生き方の実感からかけ離れていたのが最大の理由だったのではと感じるのです。たとえどうすればいいかが技法的な水準では理解できていたとしても、そこから生まれる音楽は自分の実感からはあまりにも遠い。そう感じていたからこそ彼は前後の3つの交響曲のように熱意を持って取り組むことができず、不誠実などとの言葉までもらしつつ苦闘するはめに陥ったのに違いないとも。
 チャイコフスキーが交響曲5番を己がかくあるべしと願う曲として書くことができなかったと考えるなら、少なくとも彼自身にとってのこの曲は失敗作以外のなにものでもなかったでしょう。にもかかわらずというよりだからこそというべきか、そんな曲がこういう作品として結実したところに表現者としてというよりも音楽家としてのチャイコフスキーの天才を痛感させられるばかりです。劇性より叙情性が表に出た、チャイコフスキーの毒めいたものも控えめであるがゆえに誰にとっても聴きやすく親しみやすい名曲の典型のような曲。いたずらに痛覚を刺激することのない音楽美の精髄。誤解を恐れずにいうなら音楽史上最美の失敗作。そんなチャイコフスキーに比べれば、ベートーヴェンは表現者としての面がより大きかったと改めて思ったりもするのです。
 そんな2人にはもう1つ、比べてみたい曲があります。戦勝を祝って書かれた機会音楽の最たるものともいうべき『ウエリントンの勝利』と『1812年』です。レコードの世界ではしばしば大砲の実射音などもダビングされるオーディオチェックの定番曲でもあるこの両曲、僕自身もそんな機会くらいしか聴かずにきたものですが、近いうちに新たな姿勢で聴いてみようかとも考えています。

 このような5番作曲の苦闘に思い知らされたのか、チャイコフスキーの最後の交響曲となった『悲愴』はついにベートーヴェンの交響曲を意識することから離れ、独自性の高い曲として作曲されたのでしたが、ならばこの曲にベートーヴェンへのまなざしがなかったかといえばさにあらず。冒頭楽章の開始のテーマがベートーヴェンのピアノソナタ第8番『悲愴』のテーマのオマージュとしかいいようのないものという傾倒ぶりを見せています。このことを思えば『悲愴』という標題が生まれた場面として語り継がれてきた例の有名なエピソード、曲を書き上げた作曲家が弟モデストに標題をつけたいと相談したとき、モデストが口にした「悲愴」という案が気に入りその場で決めたという話は実に疑わしいもので、少なくとも冒頭の主題を着想した時点で彼の脳裏に「悲愴」という標題が意識されていなかったはずはないとしか考えようがありません。弟との相談があったとすれば、むしろそれは作曲家自身が「悲愴」という標題ではあまりにもあからさまではと気後れしているときに弟がいくつかの別案を出しても兄がどれもしっくりこない様子なので、じゃあもう「悲愴」にしておけばと背中を押したというような経緯だったのではと勝手に思ったりもするのです。
 ひょっとしたらチャイコフスキーが感じたかもしれないそんな逡巡を演奏家たちも感じがちなのか、この曲の録音ではベートーヴェンとの繋がりを表に打ち出すケースは驚くほど少なく、確信犯的に打ち出しているのは僕が聴いた範囲では2つしかありません。1つはバレンボイム/シカゴ響が4、5、6番の後期3曲をセッション収録したシリーズで、4番には『ロメオとジュリエット』、5番には『1812年』をそれぞれ後ろにカップリングしている一方で、『悲愴』では交響曲の前にベートーヴェンのソナタをバレンボイムの演奏で収録しているのです。ベートーヴェンのソナタ全集を何度も録音しているピアニストでもあるバレンボイムならではの企画です。
 そしてもう1つがアブラヴァネル/ユタ響による『マンフレッド』交響曲も含む全集録音の『悲愴』で、これは演奏解釈そのものが非常に珍しいものなのですが、僕はこの解釈を指揮者アブラヴァネルがベートーヴェンのソナタとの関連をより明瞭に聴き手に伝わるよう工夫したものではないかと考えているのです。

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