ベートーヴェンからチャイコフスキー、あるいは影響ゆえの回避(MUSE2023年1~2月号)

 昨年暮れに自分で(まだ続く)なんて書いたくせに、1月以降びっくりするほど忙しく、こちらに投稿するのをすっかり忘れていたので、2か月に分けて書いた文章をこちらではまとめて投稿します(汗)

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 前回ベートーヴェンの5番におけるスケルツォの反復に関し、東ドイツの音楽学者にして指揮者のペーター・ギュルケに触れましたが、直後となる12月30日のEテレで放映されたベートーヴェンについての番組で、これまで写真でも見たことがなかったギュルケ氏が当時のことを語っている場面に接し感無量でした。再放送とのことでしたが僕にとっては初見で、当時の東西ドイツが国家の威信をかけてベートーヴェン研究に取り組んでいたことや、東側が全9曲の校訂を完成させるより早くベルリンの壁が崩壊し、後ろ盾の国家が消えたため校訂作業も頓挫してしまった悔しさを語っていましたが、歴史にifはないものの他の交響曲がどのようなものとして日の目を見ることになったかと僕もなんど思ったかわかりません。確かに彼らの研究もまた世紀の変わり目に完成をみたいわゆるベーレンライター新版の編纂を支えた膨大な資料の1つにはなりえたものの、互いに矛盾しあう資料のどれを採用するかを演奏者の判断に委ねるとしたベーレンライター新版の編集方針と西側と競い合いつつより決定版の名にふさわしい楽譜を練り上げようとしたギュルケチームの方針とでは、結果がおのずと異なるものになったに違いないとも思えるからです。
 5番のスケルツォとの関連でいえば、この曲のベートーヴェン本人によるセルフパロディとしての性格が強い8番が4番や7番の定型に属する交響曲で採用された速いテンポのスケルツォではなく、遅いテンポのメヌエットになっていることも注目点です。なにしろ定型のスケルツォの全てを真逆にして生み出されたのが5番のスケルツォだったわけですから、それを再度逆転させるだけでは4番や7番と同工異曲にしかならない。そこで発案されたのが先祖帰りめいたメヌエットの採用による遅さの点で共通する第3楽章だったのだろうと思うのです。第3楽章がメヌエットという点がこの8番と共通する1番を改めてこの曲と並べてみると8番が5番とそれ以外にもいかに多くの共通点を持っているかが実感できますので、全集録音をお持ちの方はぜひ3曲を聴き比べされることをお勧めします。同じメヌエットでも、1番のそれは8番よりずっとテンポが速いことに気づかれるだけでなく、主部とトリオの聴感上のテンポがコントラストより連続性を重視している点でも共通していることも解っていただけるのではと思います。

 ここまで述べてきたように、ベートーヴェンの5番はある意味クラシック音楽を代表するといってもいいほど高い知名度を持つ曲でありながら、ではベートーヴェンの9つの交響曲を代表するものかといえば、むしろ異色作と呼んだほうがふさわしい意外な位置にあることも面白いところで、あの曲が当時初めて耳にした同時代の人々のみならず後代の我々にもそう感じさせる一因に、ベートーヴェン自身が似たような曲をあえて書いておらず、共通項の多い8番は曲想そのものが5番と正反対という見せ方ならぬ聴かせ方というか、プロデュースの点でもベートーヴェンという人はしたたかだったと思いもするのです。なにしろ初演が田園と同時だったばかりか、後の合唱交響曲を予告する合唱幻想曲まで盛り込んだ欲張ったプログラムのこの歴史的な演奏会は、いかに自らの大胆さや独自性をアピールする場として企画したかを意識させずにおかぬ異色作の展覧会とでも呼ぶべきものだったのですから。

 そんなベートーヴェンの交響曲5番は良くも悪くもそれ以後の作曲家や聴衆にとって意識せざるをえないものになりました。運命と俗称されるようになったこの曲の、とりわけ運命動機と呼ばれるあのモチーフを引用している曲は多岐に渡りますが、まさに運命的と呼びたくなるのはメンデルスゾーンです。彼は2番目に書いた、ルターの宗教改革を記念するイベントに向けた野心的な交響曲を運命動機の登場するコーダで結んだのですが、本来なら交響曲2番となるはずだったこの曲は人種差別の壁に阻まれ、死語かなりたってようやく出版された際に出版の順に従って5番とされるに至ったのでした。
 さらに意識的だったのはチャイコフスキーです。彼がとっくに運命との俗称で有名になってしまっていたベートーヴェンの5番をどう考えていたのかはわかりませんが、彼の5番は確かに彼にとっての運命交響曲だったのだろうと思わせます。とはいえそれは先行した4番や最後に書かれた6番「悲愴」のいずれにもいえることなのですが、これら3曲のうち5番は特にベートーヴェンと露骨に重ならないよう意識して書かれた感触があります。冒頭楽章が緊密かつ劇的に書かれた4番や「悲愴」に比べ、彼の5番の冒頭楽章はむしろなだらかで葛藤に乏しく第2楽章や第3楽章も前後の2曲ほど強い性格のものではないのです。憂愁とは呼べても悲嘆まではいかないとでもいうのか、どこか痛みを回避してでもいるような感じで、ある種の浮遊感めいた、地に足がついていないような感覚が3つの楽章につきまとっているのです。その点において、この曲は極めて幻想的かつ耽美的です。
 この曲の最大の特徴は、フィナーレが最も曲折の多い、葛藤に満ちた音楽になっていることで、それは敗北主義的ともいいたくなるほど悲観的なチャイコフスキーにとってはまぎれもなく実感を伴うものだったのでしょう。けれどフィナーレにそんな音楽がくるはずがないとの先入観ゆえか、このフィナーレは21世紀の今日でさえしばしば何カ所ものカットを免れずにいるのです。

 前回N様がチャイコフスキーの6曲の交響曲について1番から3番までの3曲が民族的な要素を持つ前期作品、4番以降の3曲を西洋的な技法に傾斜した後期作品と説明されましたが、確かにチャイコフスキーは当初こそ国民楽派とある程度近い距離にいたものの、後に彼らと距離を置くようになり彼らからは批判されるようになったと聞いたことがあります。当時各地でわき上がった国民楽派の運動は西欧諸国に遅れを採りがちだった地域で起きた一種のナショナリズムとしての性格を避けられないものであり、それゆえかチャイコフスキーの前期交響曲も後年ほどには自らの内面に沈潜する内容にはなりえなかった。チャイコフスキーは多分そのことを物足りないと思うようになり、自らの内心にもっと忠実な音楽を書きたくなったのかもしれないと僕は感じてしまうのです。そして訴えたいことが民族的なことから離れる以上、そういう要素を表現手法に残しておくこともできなくなったのではとも。なぜなら音楽における民族性というものは言語と同じで、それを体で分かるか分からないかで受け取り方が変わらざるをえないものであり、訴えたいことがそこにないのであれば分かってくれる聴衆をわざわざ狭めるだけになる危険があるからです。
 N様がチャイコフスキーの後期交響曲として挙げられた4番以降の3曲ですが、もう1つ4番と5番の間に作曲された『マンフレッド交響曲』もこのグループに数えたい作品です。この曲を含めた4曲を順々に聴いていくとベートーヴェンの5番からチャイコフスキーが受けたとおぼしき影響とそこに盛り込んだ独自性の両方がおぼろげにでも見えてくるように感じるからです。
 まず4番と『マンフレッド交響曲』の2曲はそれぞれ4つの楽章の役割が巨視的に見るとベートーヴェンの5番に似ています。両端楽章がいずれも劇的で中間2楽章が劇性控えめという形ですが、これが5番と6番ではそれぞれ崩されて5番では冒頭楽章、6番では終楽章が叙情性も加味されて劇性をいくぶん抑えた形になっているのが目を引くのです。そして4番では前期の3曲から大胆に絶対音楽としての性格を前面に押し出しているのと対照的に『マンフレッド』ではバイロンの詩に登場するマンフレッドを題材とする標題交響曲というわけですから、ベートーヴェンにおける5番と『田園』のペアをやはり想起させられてしまいます。この2曲は絶対音楽の形式の中に己の真情を込めようとした4番と、それをマンフレッドというキャラクターに仮託させることでより情景的に描いてみた『マンフレッド』というふうにみなせるように感じるのです。なぜならこの2曲、曲を貫く情緒の性格というか質のようなものが実にそっくりで、前期3曲と比べようがないほど大幅に厭世的な曲想に彩られているからです。
 4番は冒頭のファンファーレで決然と始まるところがベートーヴェンの5番を思い出させますが、ベートーヴェンが打ち出したのが短くてありとあらゆる場所で活用されてゆくモチーフの提示だったのに対し、チャイコフスキーでは長々と長大な旋律として謳われる点が全く対照的で、その後もほとんど変形されずに登場する点で異なっています。チャイコフスキーの4番で活用されるのはこのファンファーレが静まったあと弱音で出てくる嘆き節と呼ぶべき動機で、これが4番の最も長大な冒頭楽章における主役として徹底的に活躍するのです。これを聴いているとあのファンファーレで打ち出された過剰な光と力はおよそ主役を務める嘆き節と相容れるものとは思えず、現にこの楽章で数度登場するファンファーレはそのたびに嘆き節のモチーフに打撃を与える役割になっているのが見て取れるのです。ベートーヴェンが5番で常に光と力の側に立とうとしていた姿とは全く逆に、この曲でのチャイコフスキーは自分は光や力の側には決して立てないんだと主張しているようにしか見えないのです。これが『マンフレッド』になると主役キャラクターとして曲に登場するマンフレッドの主題がそんな厭世的な暗いパッションをまさに体現するような名旋律で、後続楽章にも要所で登場するたびにそれぞれの楽章で描かれる情景を一気に己の色合いに染め変えてしまうのです。絶対音楽の形式で書かれた4番におけるファンファーレがいわば敵役として扱われているのに対し、外からマンフレッドという主人公を見つめる形で進んでいく『マンフレッド交響曲』では、どんな場面も展開もマンフレッドのありかたを変えることはできないのだといわんばかりで、固定された旋律の使い方の妙と呼ぶべき手腕にただ唸らせられるばかりです。
 そんな両曲において、終楽章がまた実に創意に満ちています。まず4番ですが冒頭でいきなり力強い主題で始まるのはいかにもベートーヴェン的ながら、この楽章をチャイコフスキーがメック夫人への手紙の中で農民たちの喜びを共にできない自分と書いていたことを思えば、この冒頭から登場し楽章本体を形作る主題はいわば農民の主題と呼ぶべきものであり、そんな力強さの狭間にこそチャイコフスキーは立っているのです。それが農民の主題の直後に同時進行するピチカート(終始ピチカートのみで奏でられた第3楽章への回帰) 次に農民の主題が第2楽章のオーケストレーションで変奏される部分、そしてコーダへの入りを告げるものとして曲頭と全く同じ形で再現されるファンファーレ。終楽章がどこか新たな場所へ連れていってくれるのかと思っていた我々が振り出しに戻されたことを見せつけられるあの瞬間こそ、実は終楽章が始まった瞬間から楽章を遡りつつここで行き場を失ってしまったチャイコフスキーが、聴き手に己の心情が伝わることに掛けた瞬間だったに違いないと僕は信じています(また続く)

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