国境を越える音楽の変容(MUSE2003年1月号)

 伊福部昭の極めて興味深いCDが発売されました。NAXOSの日本作曲家集成の1つとして出たものでドミトリー・ヤブロンスキー/ロシアPOという海外の演奏陣による初めての本格的なアルバムです。
 武満の作品などこれまでも西洋の演奏家による日本人作曲家のアルバムがなかったわけではありません。ただメシアンなどとの交流において西洋的な技法により日本的な美意識を表現した武満に比べ、より非西欧的な技法と内容を持つ伊福部の音楽が西洋の演奏家によりどう変容するかを我々は本場の視点で目撃することができるのです。これは西洋に起源を持つクラシック音楽が西洋以外の文化圏に渡ったときになにが起こったかを示唆するものでもあり、伊福部の音楽が異質な文化圏において本質を伝えうるかを占うテストケースともいえるものです。
「シンフォニア・タプカーラ」「ピアノと管弦楽のためのリトミカ・オスティナータ」「SF交響ファンタジー第1番」という1枚のCDで伊福部管弦楽を概観するには絶好の曲目によるこのアルバム、一聴してテンポの速さに驚かされます。旧ソ連圏の演奏家のためゴロワーノフやスヴェトラーノフみたいな重量級の大演奏になるのかと思えばさにあらず、むしろトスカニーニを連想させる即物的なスタイルなのです。
 テンポの速さは「シンフォニア・タプカーラ」ですでに明らかなとおり、序奏や緩徐楽章のように本来遅い部分でより目立ち、序奏から主部に入るとテンポが落ちたような錯覚さえ覚えるほどです。そのため速い部分は日本の標準的な演奏のテンポ感により近く、独特のリズムや力感の表現も十分出ていて違和感を感じさせません。それに対して遅い部分はテンポ感の違いもさることながら、旋律の歌い方やイントネーションにある種の抽象的とでもいいたくなる感覚の空白を感じます。テンポの勢いで歌い込んでいるのですが、国内の演奏に共通して見られるイントネーションが漂白されて、無国籍的な感触の歌に変わっているように感じられます。おそらくこれは言語感覚の違いに由来するもので、これが音楽が国境を超えるときに失われる要素なのでしょう。
 ヤブロンスキーとロシアPOのメンバーは伊福部の音楽を以前から研究していたのではないでしょうし、SF交響ファンタジーを初演した汐澤安彦がゴジラ映画を観てイメージを掴んだような作業もおそらくしていないでしょうから、スコアだけがたよりの初演曲の演奏水準だろうと思われますし、作品に対する慎重な距離の取り方ゆえの歌の空白なのではないでしょうか。この空白を埋めようとすれば自分が持つ言語感覚の歌をあてはめるしかないもののはずですから。たとえばトスカニーニが指揮したドイツ音楽は明らかにイタリアオペラ的な強烈なカンタービレを空白に代入したものになっていました。だから彼のベートーヴェンはドイツ人には違和感のあるものだったようですが、ドイツ語圏でしか通用しない感覚のくびきを解き放ったものであったがゆえに、その演奏スタイルは世界的に広がったわけです。トスカニーニの世代の演奏家は空白に自分の感覚をあてはめることに躊躇しませんでしたが、後の世代はその点ずっとナイーブです。たとえば小澤の音楽にもどこかにそういう慎重さとそれゆえのよそよそしさのようなものがあります。世代が上で国内の活動のウェイトが高かった朝比奈の音楽が日本人の我々の感覚に引き寄せた歌を遠慮なくあてはめているのと対照的に、国外での活動が中心だった小澤がローカライズに直結する自分の感覚での処理を取るわけにいかないのはやむをえないことなのでしょう。ヤブロンスキーの伊福部演奏にもそれに近いよそよそしさがあるのですが、結局ある作品を言語感覚を異にする人間が自分のものとして演奏することはローカライズに他ならず、そういうプロセスで生まれた地域から切り離されることでしか違う文化圏には渡れないようです。小澤の音楽やヤブロンスキーの伊福部はその意味で埋まれ故郷から切り離されたもののまだ新たな世界に移植されていない、空白地帯に未だ留まっている音楽ではないかという気がします。仮にロシア的なイントネーションで緩徐楽章が歌われたならば、我々にとっては極めて聞き苦しいものになったでしょうが、おそらくそういう変容こそが音楽が異国に受容された証なのでしょう。
 たとえばこのことはブーレーズの指揮したバルトークのオペラ「青髭公の城」の旧録音を思い起こせばより理解しやすいと思います。指揮者も歌手もオーケストラにもまったくハンガリー人がいない初めての録音だったこのディスクは、ハンガリー人が参加している他の全ての録音と比べてイントネーションの扱いが飛び抜けて異質です。しかし、この演奏はハンガリー語のイントネーションへの配慮を捨てたことによって他の演奏に不可能なまでに場面の展開に合わせた自在な緩急を付けており、ハンガリー人にとっては違和感を与える危険の代償として、ハンガリー語を解さない人々への強烈な訴求力を獲得しています。ブーレーズ自身も新録音ではハンガリー人のスタッフを加え、他の演奏と共通するイントネーションを採用していますし、作品の再現としてはその姿勢の方が正しいのは間違いないのですが、結局本場の演奏のままでは音楽は生まれ故郷から外界へ出られないのだろうと僕は思います。
 伊福部の音楽が日本という風土から切り離されたのを今回のアルバムで目撃したわけですが、いつかは別の文化圏に移植されて変貌した演奏にも接してみたいものです。スヴェトラーノフのブラームスみたいなもの凄さにめげる危険はありますが(笑)

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