日本の5つのシベリウス全集(MUSE2021年10~11月号)

 藤岡幸夫/関西フィルによるシベリウスの交響曲全集が発売され、日本で録音されたシベリウスの全集は5種類になりました。ベートーヴェンやブラームスには及ばないものの、この数はそれ以外の作曲家による交響曲全集としては異例の数です。ブルックナーは朝比奈の3種に若杉の1種を加えた4種。マーラーは若杉とインバル/都響の2種。チャイコフスキーもマンフレッド交響曲を含まない6曲のみの体裁で小林研一郎と飯守泰次郎の2種しかないのと比べると5種という数は目立ちます(しかもここにはフィンランド放送響の来日公演をオッコ・カムと渡邊暁雄が分担した全曲チクルスを加えていないのですから)
 一般的な人気はブルックナーやマーラーのほうが勝っていると見えるシベリウスですが、比較的小さな編成であることが機会に恵まれている面はあるにせよ、需要がなければ経費をかけてまで収録されることもないでしょうから、地元関西初の全集の登場は僕としても嬉しい限りです。そんなわけで、今回は我が国で収録された5つの全集それぞれの特徴について、2回にわたり簡単に述べることといたします。

1渡邊暁雄/日本フィル(1962年収録)

2渡邊暁雄/日本フィル(1981年収録)

3インキネン/日本フィル(2013年収録)

4尾高忠明/札幌交響楽団(2013~2015年収録)

5藤岡幸夫/関西フィル(2012~2018年収録)

 渡邊の旧録音はステレオ録音による最初の全集として、国内よりむしろ海外で名をなした全集として知られていますが、楽譜をできるだけ実直に音化したようなこの楷書のような演奏はそれが当時の日本の楽団にできる精一杯の表現だったという面も確かにある一方で、そんな演奏ゆえにシベリウスの書法の現代性が表出されていると感じさせるものでもありました。構造が語るものを重視したのは結果論だったのかもしれませんが、だからこそこの全集はアメリカのエピックレーベルの販路に乗って多くの国々に渡ることができたのではないかとも思うのです。時代的にもまだシベリウスが同時代の作曲家だったことを覚えている人も多かった、そんなぎりぎりの時代に日本で全集録音が誕生したことも、あるいはその後5種類もの録音を実現させる下地になったのかもしれません。

 そんな渡邊の再録音はまだCDが登場する直前、PCM録音によるLPレコードとして登場したのですが、初めてそれを聴いたとき、なんともいえぬ掴み所のなさのようなものを感じたことが忘れられません。順序としては僕は旧録音よりも早くこの新録音を聴いたのでしたが、それまでに聴いた全集のどれよりも分かりにくさのようなものを感じさせた全集でした。LPでは入手できなかった旧録音をCDで聴いてようやく、この新録音は旧録音と目指すところから異なるのだと分かったありさまでした
 この演奏の最大の特徴は、リズムが軟質に聞こえることです。だからどうにも決まらないというか、締まりがない音楽のように聞こえがちです。けれどこの録音が出たのとほぼ同時に出たベルグルンド/リヴァプール・フィルのEMI盤や、DGでカラヤンの録音を補完する形で1番から3番までの3曲を担当したカムの録音、それもベルリン・フィルを振った2番ではなくフィンランド放送響との1番、3番の方に共通して同様の軟調さが感じられることに気づいた僕は、これはひょっとすると、フィンランド語(という呼び方でいいのかどうか定かではありませんが)の語感と関係があるのかもしれないと思うようになったのです。
 なにしろそれから40年近い歳月が過ぎる間、フィンランドの言葉をそれと知って耳にする機会がないままなので、これは未だあの時と同じく推論の域を出ていないのですが、ベルリン・フィルとの2番が威力的なオーケストラの性格と相まって非常に剛直かつ劇的な表現だったのに対し、1番と3番は正反対といいたくなるほど軟調で、いかに優れたオケといえど、客演でそんな要素を演奏に反映させることはできず、その違いがこうして音盤に刻みつけられたのではと今でも感じてしまうので、フィンランド人指揮者と母親がフィンランド人でかの言葉が母の言葉でもあった渡邊に共通するこの軟質さを語感以上に説明できるものが見つからない限り、この推論というか仮説を僕は捨てられそうにないのです。
 ただこの軟質さがフィンランド語と繋がりの深い演奏家固有のもののように感じられるとはいえ、フィンランド人なら必ずこの特徴を見せるかというと必ずしもそうではありません。たとえば全集を2度リリースしたサラステの場合、2回とも母国のオケを指揮しているにもかかわらず、いずれも構造の表出に意を砕いたもので語感めいたものへの接近を感じさせない内容になっていますし、いっそう興味深いのはインキネンです。彼は日フィルとのチクルス以前に手兵だったニュージーランド響とも全集録音していたのですが、そちらでは軟調な表現も見せているのに客演ゆえ練習時間も限られていたとおぼしき日フィルでは、渡邊の旧録音そっくりなコンセプトを示しているのですから。

 おそらく2回目の全集において渡邊はインキネンがニュージーランドで試みたように、練習時間の確保を前提にあえてフィンランドの言葉を解さないオーケストラで母語のニュアンスを備えたシベリウスを表現することを目指したのではとも思うのですが、それがどれくらい達成できているかさえ判断できない日本の聴衆にとって、そういう要素をきっぱり捨てた1回目の全集に比べると、それだけ分かりにくいものになったのは否定できないように思います。ここで思い出されるのが、ブーレーズがCBS時代に録音した一連の現代オペラ録音です。これはドビュッシーの『ペレアスとメリザンド』から始まった一連の録音でしたが、主要な演奏陣のうちフランス人は指揮者ブーレーズだけという思い切った布陣で、ブーレーズは母語のニュアンスの縛りから解放されたことを最大限に活かし、実に器楽的な演奏設計でこのオペラを再構築していました。このコンセプトはシェーンベルクの『モーゼとアロン』やベルクの『ヴォツェック』、バルトークの『青髭公の城』にも引き継がれ、それらの母語を解さない聴き手にとって実に分かりやすい表現になっていました。特に歌手が2人しかいない『青髭公の城』の場合、少なくとも1人はハンガリー人が起用される場合がほとんどで、ハンガリー語で歌われているにもかかわらずギリシャ人とドイツ人が起用されたこの録音は異例中の異例です。そして日本人でしかない僕の耳にさえ、これだけが他の全ての録音にはっきり共通するイントネーションから明らかに逸脱していて、そのかわり器楽的な緩急やダイナミズムを貫徹させているのです。多くの録音で収録される冒頭の語りが省かれているのも、言語へのこだわりを捨てた姿勢の表れのようにも感じられます。
 このように母語の文化圏の外部に伝わる表現をあえて目指したブーレーズも、後のDGへの再録音ではコンセプトを変更し母語のニュアンスの再現も重視する姿勢になったのでしたが、渡邊の2つのシベリウス全集が示した変化もそんなブーレーズの場合と同様の意味合いのものだったのではと思うのです。
 その意味では渡邊の2回目のシベリウス全集は、日本の聴衆が求めるものとはすれ違っていたのかもしれませんし、フィンランド人であるインキネンでさえ客演の身ではチャレンジしなかったことを思えば、フィンランド語を解する団員がいないオケにそんな表現を教え込むという試みが必ずしも達成されたとはいえないのも当然と思えますが、そもそもこんな試みはフィンランド語に母語と近い水準で親しんだ演奏家でなければ不可能なことのはずですから、もはや二度と出てこないかもしれない。そう考えればこの全集はシベリウスの日本における受容史の上で、かけがえのない価値を持つものとすらいえそうにも思うのです。

 尾高/札幌響と藤岡/関西フィルは発売こそ前者が先行しましたが、収録時期は藤岡盤がより早く始まり遅れて終了していて、尾高盤の収録時期を包括していますので、事実上同時期の収録と見なしていいでしょう。仕上がりは総じて尾高盤が上で、中でも録音の素晴らしさは5つの日本録音のみならず、世界的に見てもトップクラスだと思います。国内唯一のSACDによる全集ですが、単に録音方式ゆえのものではなくマイクのセッティングなど収録手法の段階で綿密に準備していないと、これほど見事な音で記録することはできなかったでしょう。オーケストラのコンディションも高く、編集は当然されているとしても聴いてわかる傷はありません。そういう点では国際市場のどこに出しても恥ずかしくない出来だといえるでしょう。
 にもかかわらず、5つの国内録音からどうしても一つしか選べない場合、僕は僅差で藤岡盤を選ぶことになるでしょう。理由は3番の最終楽章における解釈です。この楽章は冒頭の細かい奏句のただ中により音価の長い歩みが加わるという、後の5番の最終楽章の先触れのような展開を見せているのですが、尾高はここで新たな主題が出てきたことを強調する意図ゆえか、テンポを遅くするのです。
 新たな展開を見せたときテンポを変えるこの手法はロマン派の作品で多用されているものであり、そのことだけで変だとまではいえないにしても、終盤まで併走する細かい奏句の存在を思うと僕はやはりテンポは変えてほしくないし、それでこそ先行した曲より簡潔になった書法も活きてくるはずでは、などとつい思ってしまうのです。

 たしかに尾高盤は藤岡盤よりも多くの点で勝っています。セッション録音ではあるものの、関西フィルには演奏の傷も散見されますし、録音込みの美しさでは尾高盤の水準に届いていないのも否定はできません。けれど藤岡の全集における最大の美点は7曲全ての解釈が実に妥当、かつさりげないことです。尾高の全集で疑問を感じさせた3番のフィナーレも疑問に繋がる引っかかりはどこにもなく、音楽の骨格がしっかりしているという印象がまず真っ先に感じられます。
 その上でこのチクルスには、渡邊の2回目の全集を特色づけていたあの軟調さも控えめながら備わっているのが素晴らしい! 控えめなので日本人にも答の分からない謎のような違和感までは感じさせず、それでも曲自体の特色への目配りがされているとの手応えは伝わるさじ加減の勝利というべきでしょうか。ある意味絶妙の翻訳にも似たこの特色が藤岡盤を推す最大の理由です。

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