壊れる自由

大概の大人は自由だ。
檻の中にでもいない限り、自分が好きなように過ごせる。
仕事がしたくなければしなければいいし、お金が欲しければ稼げばいい。
上司と合わないなら会社を変えればいいし、上司という存在が嫌なら会社に所属しなければいい。配偶者や子供がいて、鎖に繋がれたように感じるなら離婚して一人で暮らしたらいい。とにかく基本的に何をするのも、何をしないのも、自分で選んだらいい。誰も何も強制はしない。

私生活でいろいろあって、今はエッジの上を歩いている。どっちに転がるか、非常に危ういバランスで日々生きている。危ういバランスで生きて、倫理から外れるようなこともしている。自分を傷つけるほうに向かっている。それを自分で正当化する理由を見つけて一時の安心を得て眠る。何を得て何を失うのか、計算ができずにいる。もはや最初から計算する気もない。

タイトルの通り、壊れる自由が俺にはある。解決しない問題が目の前にあったとして、自分が壊れることで気が楽になるなら壊れたらいいと思う。悲しむ人の顔が浮かぶなら止めた方がいい。限定的に壊れて、また正常にもどるのもいい。ただその場合は二重人格になっていく自分がキツイ。自己嫌悪に苛まれる。

壊れた自分を他人に面白おかしく話す。
たいていの人は笑って、その場では笑い話になる。叱る人はあまりいない。それは他人の人生だから。俺も基本的にそういうスタンスで生きている。

先日、ついにある人に叱られた。
ずれてる感覚が戻った。気がする。でも大切にしなきゃいないものが再確認できた。やっぱり自分の中だけでは、正しいジャッジはできていなかった。気がする。

「気がする」というのは、そんなにすぐ人間の主観は変わらないと思うから。だから自分の弱さに負けないように、予防線を張ることにした。予防線が一つだと自分の気持ちの波に負けそうになるから、三つ用意した。

書いたら楽になった。
僕の現状に気遣って、連絡をくれる人や会ってくれる人に本当に感謝しています。なんでみんなこんなに優しくしてくれるんだろって思いますが、本当に感謝しています。ありがとう。

ちょっと前に書いて、長いこと公開していなかったけど今日になってそうする気になった。

これも俺の予防線です。

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