黄河文明と長江文明

◉世界四大文明なんて言い方自体がおかしいのは、浦沢直樹先生の『MASTERキートン』ですら、とっくに指摘していましたね。同じ時期に、似たようなレベルの文明は20以上はあったので。あの連載が1988年から94年までですから、もう30年以上前。でも、マスコミはちっともアップデートされませんね。それは、長江文明の軽視にしても同じですが。

【「中国北部・朝鮮半島から文明が日本に渡来」説は根拠のない創作】現代ビジネス

日本の教科書が教えてきたアジア史は、いわば中国中心の見方だった。「殷、周、秦、漢、三国、晋…」と、紀元前からの中国の王朝名を中学一年生で暗記させられた経験は誰でもあるだろう。しかし、それではアジア全体の歴史のダイナミズムを感じ取ることはできない。アジア史はもっと雄渾で、さまざまな民族が闘争を繰り広げてきた。彩り豊かなその歴史を、民族・宗教・文明に着目して世界史を研究する宇山卓栄氏の新刊『民族と文明で読み解く大アジア史』(講談社+α新書)からおもに日本と中国、朝鮮半島との関係について連載でご紹介する。

ヘッダーはnoteのフォトギャラリーより、麦の穂の写真です。

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■遼河文明と黄河文明■

中国大陸の文明も、黄河文明・長江文明・遼河文明と、最低でも3種類の代表的な文明が存在しています。遼河文明は最古の興隆窪文化(こうりゅうわぶんか) が紀元前6200年頃〜紀元前5400年頃です。櫛目文という、櫛で引っ掻いたような並行の筋状の文様がついた土器や、中国最古の龍を刻んだ翡翠などの玉製品も出土し、黄河文明への影響さえ指摘されています。

黄河文明は、最古の裴李崗文化が紀元前7000年頃~紀元前5000年頃とされていて、この頃すでに粟を畑作で栽培していたのが分かっています。黄河文明の方が遼河文明よりも800年ほど先行していますが、後発文明の方が先行する文明よりも部分的に大きく進歩する現象は、ヨーロッパのアルタミラ洞窟やラスコー洞窟、ショーヴェ洞窟などの壁画の技術を比較しても、理解できます。文明は急激に発達したり停滞したりは、ざらにありますから。

■環日本海経済圏■

日本列島は火山が多いため、各地から黒曜石が出土し、これが2万年ほど前から国内の交易に使われていたのが分かっています。日本国内には黒曜石の産出地が70箇所以上あり、良質な黒曜石も55箇所あります。意外なことに、中国大陸には黒曜石の産出地は存在せず、近隣でも朝鮮半島の白頭山ぐらいしか、産出しないようで。島根県の隠岐の島産の黒曜石は良質で、朝鮮半島はもちろん、ウラジオストックやナホトカの約1万8000年前の遺跡からも発見されています。

どうにも日本史の教科書を読んでいると、弥生時代になって突然、大陸から半島を経由して稲作や文化が流入したような印象を持ってしまうのですが、これだけ古くから大陸と日本列島は交易を続けていたわけで。大陸で9000年前か8000年前ぐらいに粟の栽培が始まったのならば、そりゃ弥生時代より遥か前に日本に農耕が伝播しただろうなというのは、中学生でも気づく話ですからね。稲作と半島の過大評価。

■長江文明と日本■

実際問題として、近年のプラントオパールの研究で、約6000年ぐらい前には既に、岡山県の辺りに稲の栽培が伝わっていた可能性が指摘されています。長江下流域の浙江省の河姆渡遺跡では、紀元前5000年頃〜紀元前4500年頃にかけて栄え、稲作が行われていました。河姆渡の人類は農耕民であり、同時に漁労民でもあり、季節の風向きによっては薩南諸島から九州南部に漂着していた可能性は高いです。

河姆渡の遺跡からは稲以外にも、ヒョウタン・ヒシ・ナツメ・ハス・ドングリ・豆などの植物が発見されているのですから、稲よりももっと栽培が簡単な植物の農耕は、とっくにあったと考えるのが常道。三内丸山遺跡も、実の大きな栗の木を選んで植林して、原始的な農耕が行われていた可能性がありますから。農業とは何も、イネ科の植物だけを指すわけではありませんからね。

■邪馬台国と狗奴国■

長江文明が日本に与えた影響は大きく。そもそも、卑弥呼の時代に邪馬台国は魏に朝貢しましたが、敵対していた狗奴国は、呉との関係が深かった可能性。邪馬台国は地名から見るに現在の北部九州に存在したのは確実で、狗奴国は球磨国、つまり現在の球磨川流域の国であったと。実際、熊本県からは江南地方の影響を受けた免田式土器やジョッキ型土器が発見されています。

鉄器の出土も熊本県は多いですし、球磨郡の才園古墳から、鍍金(金メッキ)した鏡が出土しています。これは三国志時代に中国の江南地方、つまり呉でつくられたもの。どうしても我々は、昔は航海技術が未熟で、半島経由で大陸と交易したと考えがちですが。違います。縄文人の時代にすでに、環日本海経済圏と呼べる交易圏がありましたし。

■ポリネシア系海洋文化■

このnoteで何度も書いていますが、日本文化の規基底にポリネシア文明があります。イースター島のモアイ像が、よく見ると褌(ふんどし)をして正座をし、背中には彫り物(文身)があります。これらはポリネシア文明の共通点です。そもそもポリネシア人自身が、現在の台湾や対岸の福建省あたりの華南地方がルーツで、およそ5000年ほど前にここから世界各地に進出していきます。

それこそハワイ諸島やイースター島などまで到達した、大海洋民族です。縄文人の対外交易を見ても、古代人は我々が思う以上に高度な航海技術を持っていたことがわかります。紀元前14000年頃〜紀元前1000年頃まで栄えた長江文明が、東に海を渡って日本に、西に移動して四川省の三星堆遺跡に連なる文明になった、というのが現実的でしょう。

■環日本海・環東シナ海・環黄海■

東アジアには環日本海交易圏と、長江文明の環東シナ海交易圏、そして黄河文明の環黄海交易圏があったと考えると、理解しやすいような。18000年前かそれ以上に古い時代から、人類は広大な地域で交易を繰り広げていたわけで。日本列島には黒曜石や翡翠(硬玉)や金、琥珀、真珠など、当時としてはかなり貴重な資源が存在していましたから。交易品が多かった。

さらに言えば環日本海交易圏は、能登半島以北の樺太まで含む北方の遊牧民や漁撈民の交易圏と、能登半島以南の交易圏に分けられそうですね。能登半島以南の交易圏は、環黄海交易圏と接点のある、文明が交わるクロスロードというふうに考えることも可能です。このように、交易圏の視点で見ると、古代日本の文明というのは更に面白そうですが。ここら辺の文化のルーツが、邪馬台国やな狗奴国の古代史にも、繋がっているのでしょう。

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