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投稿作にありがちな問題点②

◉note『投稿作にありがちな問題点①』からの続きです。長くなったので、ふたつに分けました。作品作りの問題点は、小説も漫画も似たような所に収斂するようで。グサグサ刺さりますね。興味がある方は①もどうぞm(_ _)m

ウチの講座からは、漫画家はもちろん、KADOKAWAから小説家デビューしたりアニメーターになったり、映画監督になったりする人も出ていますが。作話や作劇って、通底すると思っていますので。

■スティグマを背負わない問題■

コレは、リスクとデンジャーの違いを考えていないから、という部分に収斂できますね。デンジャーはただの危険。リスクは危険とリターンが表裏一体です。それを選択すればスゴい力を発揮するけれど死ぬかも知れない、みたいな部分があるから、作品に緊張感も出るわけです。新造人間キャシャーンはアンドロイドとしての力を得る変わり、人間には戻れぬリスクを背負うわけで。そこに切なさを纏うことができるわけで。

例えが古い? 知らんがな。そこで、今の作品なら何がそうだろう……という方に視点が向かず、例えが古いのなんのと評論家気取りで揚げ足取りに思考が向くのは、親御さんの躾がそうだったんでしょうね、としか言えません。クリエイターにも向いていません。〝ボクの考えた最強の必殺技〟みたいな発想で止まるのではなく、客観性を保つ。ここら辺は、ピクサーの作話論でも取り上げられてるので、ピクサー作品を念頭に分析しても、気付くこともあるでしょう。知らんけど。

■神は細部に宿るが全体にも■

投稿者で多いのは、細部ばかりに拘って、全体のバランスを崩すタイプ。これは立川志らく師匠の第1回監督作品『異常暮色』が典型例でしたが。志らく師匠の落語はメチャクチャ面白く、その映画評も的確なのに、自分が映画を撮ると、こんなになってしまうのか……と愕然とした思い出があります。水野晴郎氏の『シベリア超特急』どころでない、怪作になっていました。

古典落語という芯がしっかりした作品を、アレンジを加えて演じるのは抜群に上手くても、オリジナルで新作を作ると難しいという、実例としても興味深かったです。ここから編集者時代の自分は、作品の〝型〟とは何かを、考えるようになり、原作者としてそれを応用し、今はそれを漫画家志望者に教えているのですが。先ずは芯のある、全体の整合性を整える方が先でしょうね。たとえその時点では凡庸な作品になっても、です。

■表現のステレオタイプと拘り■

例えば、タバコを吸うときに、マールボロを選ぶかキャメルを選ぶかで、その人のキャラクター性にどんな違いを付加できるのか? そこに意味を付加できないなら、ただタバコとするのが無難。そこで、紙巻きタバコと葉巻とパイプでなら、差が付けられるのなら、そこで表現すべきなんですよね。熱海の海とプーケットの海だったら、煙管と葉巻ぐらいのキャラクターの内側の違いが、表現できるでしょう。

逆に言えば、拘りがないなら、妙に細かく人物や情景は描写するべきではないんですよね。漫画だと、モブキャラのセリフは写植ではなく手書き文字で表現するように。何かの伏線ならともかく、そうでないものは流す。ここら辺も、先に触れたキャラの内面と外面の不一致の問題と通底するんですよ。これは世界観の一貫性と言っても良いですが。読者はただ受け身で読んでいるのではなく、先の展開をあるていどは予想しながら、作品を読んでるのです。

■艶はサービスか義務か問題■

ここら辺は、好みの問題もあるかも知れませんけどね。あるていど長い尺の小説の賞ならば、ムダに濡れ場を入れるのもまたサービスの内。コミック乱TWINSのお色気担当の篁千夏あたりも、何かと苦労していますが。Twitterなどではエッチシーンが多すぎると言われ、でもアンケートは濡れ場が多い方が好評という、ジレンマはあるようです。読者の好みは難しいです。

まぁ、これも自分で楽しんで書いてたり、そこに流れを乱さない必然性があるなら、自分は問題ないと思います。でも「こういうのを入れときゃ審査員は・読者は喜ぶんだろ」という、底意が透けて見えたら負けでしょう。あるいは、自分は納得してないが、そういうもんだと言われたから入れる、というのはダメですね。ここら辺は、小池一夫先生のスタイルの表層だけマネした劇画でも、よくある問題ですが……。

■無駄セリフを省く・磨く問題■

ここは、実は漫画のセリフ磨きは、けっこうレベル高いんですけどね。そりゃあ、雁屋哲先生の漫画とか、セリフが多すぎてダメダメなんですが。ウチの講座では、長台詞の代名詞の橋田壽賀子先生と、江戸時代を代表する長い尺の文章を書く井原西鶴、今西鶴と呼ばれた野坂昭如氏、これに雁屋哲先生も加えて、漫画のセリフがどうやって無駄を省いているか、その技術を比較します。

比較だけしても、それじゃあただの評論になってしまうので、そこから漫才や落語の会話を元にして、メソッドを数個用意して、文章力を磨く方法を伝授します。前の方でも書きましたが、漫画は短いページの中で読者を引きつけ、満足させないといけないので、ムダなページは極力削る。削るには、セリフの量を削り、置き換え、絵で表現できる部分は絵に任せる。こういうのって、とても大事なんですよね。自覚的でないベテランも多いですが。

■そこに愛はあるのか?問題■

これも、必殺技の内面性の一致や、熱海とプーケットの海の違いなどに対する意識が、別の形で噴出した例です。事象は違っても、根本的な問題は同じ。技や場所やスポーツの違いが問題の本質じゃない。好きの熱量の違いとかとも関わってくるし、対象に対する思い入れと細部の描写の問題にも、通底するのですけどね。要は「おまえ、何も考えずにテンプレを当てはめてるだけだろ?」って問題です。

作品作りの省力化で、テンプレートを使うことはあります。それは、文句ばかり言う奥さんでも過度に良妻賢母な奥さんでも、実はテンプレート的人物造形という意味ではいっしょですから(三宅隆太監督の指摘)。でもそれは、作中ではたいして重要出ない人物。主要人物でそれをやると、とても手を抜いてたり、センスがないように感じるんですよね。実際、ないんですが。モブキャラは割り切ってテンプレで、でも主要人物は丁寧に、造形するのが大事。

■言いおおせて何かあるの問題■

この主人公失踪パターンの作品作りの、元ネタってナンですかね? 構造的には『ドラゴン・タトゥーの女』も『桐島、部活やめるってよ』も実は同じ。最後に一気に謎解きというのは、推理小説の揺るぎない型ではあるのですが。そこが面白く感じるには、パズルのピースが埋まっていくような爽快感が必要なわけで。思うに、こういうのがつまらなくなってしまうのは、説明しすぎ問題があるのですが。

漫画だとバカな編集者が、読者には全部説明しないと話からないと思い込んでるため、こういう説明しすぎ問題が起きます。作品の余白とか、意識がない。ノートにびっちり記述する、強迫観念タイプっぽいですが。松尾芭蕉も「言いおおせて何かある」と言っています。全部を言葉にしてしまっては、何も残りません。全体像は解るけれど、パズルのピースを所々は空けておくことが、読者に想像する喜びを与えます。桐島は何も語らない。そこが良いように。

■定型表現と語彙の増量問題■

定型の表現を嫌うのは、小説の特徴。漫画の場合、逆に定型表現で情報量をショートカットする部分もあります。これはそれぞれの表現の特徴であって、優劣上下は言ってません。漫画は絵という独自表現がある分、文字部分は定型でも気にならない部分は、ありますから。語彙って知識量ですから、ここを増やすってのは実は受験勉強的な部分があるんですよね。要は記憶力と読書量の掛け算。

でも、豊富な語彙を持っていても、使いこなせなければ意味がない。武術の世界だと、万の技を持つ人間よりも、誰にもマネできないレベルにひとつの技を磨いた人間を恐れろと言いますが。これは当たっています。ただし、一芸に通じるは万芸に通ず、とセットなんですよね。ひとつの言葉に多様性を持たせる技術とセットでないと、いたずらに数を増やすことの、無間地獄に陥ります。講座では、ここら辺のメソッドも用意していますが。

個人的に有用だったのは、鳥山仁先生のTwitterに書かれていたアドバイス。それは、類語辞典を上手く使え、というもの。今は電子類語辞典に便利なモノが多く、自分の書いた単語を引くだけで、類語とその用例が載っていますから。闇雲に語彙を増やすより、実際に自分が書いた表現を、別の語彙で表現するトレーニングの方が、身の丈に合った守備範囲を一歩ずつ増やすようなもので、有効に思います。

■不易流行とひけらかしの問題■

これも、最初の問題に戻るのですが。取材したことをひけらかす問題や、蘊蓄を傾けすぎる問題ですね。でも、並べるだけで意味が出るはずもなく。登場人物の博識さを見せるためならありですが、それで作者の心根が読者にバレちゃしょうがない訳で。新しさって、難しいですよね。松尾芭蕉も〝不易流行〟が必要と言ってますし。最新のモノは、発表した瞬間から古くなってしまう。だいたい新しさって、あんがい新しくない問題があります。

大学の後輩とか、幼稚園から青学で渋谷を徘徊してる連中とか、雑誌に載るような〝最新〟よりさらに先を行ってるのを見ますと、そう思いますね。新しさを追い求めるのは、これまた無間地獄。自分が時代劇の方に行ったのも、ちょっと古いからそれ以上古くならないから、という部分があります。ブロンズ像はちょっと錆びるとそれ以上は錆びないように。中途半端に新しさを追うより、いっそ追わないというのもまた、ひとつの選択肢に加えたらいかがでしょう?

■不易流行と概念の更新問題■

コレで松江氏の最後のツイートです。ここら辺は、SF小説の持つ宿命というか。藤子・F・不二雄先生は、そのときどきの最新科学を作品に採り入れてきました。自分などはそれにワクワクドキドキしたモノです。でも劇場版アニメ第一作『のび太の恐竜』は大傑作ですが、今ではフタバスズキリュウは恐竜ではない、海棲爬虫類だというのは、恐竜好きの小学生ならもちろん、知ってる子は知っていますしね。だって、自分らが小学生の頃はネッシーだって、恐竜の生き残り扱いでしたから。

自分は、そういう最新を追うのは辞めちゃった人間ですから、SFの不易流行については語れることは少ないです。しかし逆に、時代劇に人権とか平等とか国民国家とか、近代の発明を入れてくるのが、概念の更新だと考えている人には、違和感があります。NHKの大河ドラマでもコレをやらかす人がいますが。正解とか間違いの話ではなく、あくまでも個人的な違和感です、はい。

これは日本が連戦連勝だった戦前に、吉川英治『宮本武蔵』が大ヒットしたことの、対象形でもあります。吉川英治の作品では傲慢な天才剣士と描かれていた佐々木小次郎が、戦後は純朴な田舎者の剣士の青春小説に。こういう更新や時代性って、必要だと思います。今現在の社会が抱えている問題とシンクロしていない作品は、上滑りするモノですから。逆に言えば、一流作家というのは時代の空気を直感的に読み取れないと、ダメなんでしょう。自分には一生ムリですが……。

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ということで、ふたつ併せて15000文字近いnoteは終わりです。有料にしても良いぐらいの記事ですが、他人のフンドシというかツイートを元にした内容ですからね。気に入った方は、サポートで投げ銭するか、拙著を購入してください。目から鱗で、面白いですよ〜と自画自賛しておきますm(_ _)m

あるいは、MANZEMIの講座、興味がありましたらどうぞ。ここで名前だけ書いた各種メソッドが、いろいろと学べますm(_ _)m

どっとはらい( ´ ▽ ` )ノ

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