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オウム真理教と和製サブカルの限界

◉菊池誠大阪大学教授が、オウム真理教に対する90年代の和製サブカル界隈の冷笑的な態度を、批判されています。ご自身も一時期は会員であった、と学会的な態度では限界があったということを、吐露されています。もちろんこれに対する反発や、批判も出ています。「あの当時、と学会に何ができた訳でもなく、無限責任を求めるようなものだ」という意見は、自分も理解できますので。そうでない部分で、思うところをダラダラと書きます。

僕たちはオウム真理教を「トンデモ宗教」として笑いで消費したことを反省しなくてはならんのです。あれこそが「と学会」的なサブカルの限界というか危うさを示すものでした。

https://x.com/kikumaco/status/1761024513213628849?s=20

ヘッダーはnoteのフォトギャラリーより、メイプル楓さんのイラストです。


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■90年代の空気とは■

90年代、オウム真理教は小馬鹿にして楽しむ存在だと、多くの知識人や文化人が思っていました。学生から駆け出しの社会人であった頃の自分もまた、彼らの奇妙なパフォーマンスを笑ってた一人でした。大学時代は日本文学科で近代文学を専攻し、三島由紀夫が好きだった友人に勧められて、仏教の唯識論にも興味を持ち。また、ミッション系大学にも関わらず、ゼミの指導教官が仏教にもかなり詳しい方だったので、『ミリンダ王の問い』を読んだ程度ですが、仏教思想の知識も多少ありました。

なので、麻原こと松本千津男の空中浮遊の写真が、力業でやってるのが見え見えのオウム真理教は、よくある稚拙なオカルトに思えました。別noteに粘着した神秘系武道の狂信者と同じで、簡単なトリックに引っかかる信者と、厚顔無恥な教祖の共犯関係。だいたい、滝本弁護士や江頭2:50さんの方が、高く飛んでましたからね。宗教学者の島田教授もまんまと騙され、別冊宝島もそういう扱いでした。

それどころか、幸福の科学の仏教理解に対して『真実の仏陀の教えはこうだ: 幸福の科学の会員よ聞きなさい』という本を出してダメ出しをするほどには、オウム真理教は生真面目な仏教研究者の部分もありました。高学歴の弟子が多い強みで、パーリ語の仏典を直接翻訳し、仏教研究の泰斗・中村元先生以外には自分らは負けんと豪語するぐらいには、素人には反論が難しいぐらい勉強してたのも、事実です。

■生真面目な妄想集団■

なので、カルト宗教批判で活躍されていた米本和広氏も当時は、オウムの幸福の科学批判を、評価していたぐらいでした(そのカルト批判の米本氏も、反統一教会・反カルト陣営の攻撃のメチャクチャさに、そちらにも批判を加えることになったのも皮肉ですが)。そうやって考えると、2020年代になって可視化さ、吹き出している各種問題の種は、実は1990年代にすでに仕込まれていた……と考えることもできるでしょう。

でも当時のオウム真理教は『朝まで生テレビ』や『TVタックル』にも出演しており、テレ朝はむしろ推してた印象です。とんねるずの『生でダラダラいかせて』には『麻原彰晃の青春人生相談』なんてのもありました。そう、オタクを嫌悪し、誇張された気持ち悪いオタクを演じることで、オタクを小馬鹿にしていた宅八郎氏を、重用していた、とんねるず。自分が、石橋貴明的なノリが大嫌いな理由です。

とんねるずのブレーンに、和製サブカルが多かったんでしょう。それはたぶん、よしもとばななを読んでると語った小泉今日子さんの、ブレーンにしてもそうですが。キクマコを先生が指摘されている、と学会的なサブカルの限界云々は、こういう部分を指してると、個人的には思います。どうせ大したことのない存在だと、安心して小馬鹿にしてたら、彼らは妄想みたいなことをガチで信じていて、国家転覆さえ目論んでいた狂気の集団だったのですから。

■冷笑の先にあるもの■

人権派弁護士だった時代の福島瑞穂弁護士が、坂元弁護士一家失踪事件に動揺し、まだオウムの犯行の証拠もない内から、犯人はオウムに違いないから別件逮捕して泥を吐かせろ(大意)と、週刊プレイボーイ誌上で口走るほどには、パニックを起こしていました。まあ、この人のダブルスタンダードは、国会議員になる以前からでしたけどね。最近は、あきたこまちRに難癖をつけ、自分自身がトンデモに。

あの人たちは、すぐ「政府の言論弾圧が〜!」とか言いますが、弁護士という立場を尊重し、政府批判をしても反撃してこない日本国政府の、寛容に甘えていただけの反政府ポーズです。そこに安住していたら、自分たちに手を出さない優しい日本国政府という枠組み自体を、攻撃してきた狂気の宗教団体の出現───。体制内反体制と、体制自体を破壊する、ガチの反体制との違い。福島瑞穂弁護士や押井守監督の、反体制ゴッコ遊びとは、オウム真理教は次元が違いました。

と学会的な冷笑や失笑に、いじめられっ子がマシンガンを撃ってきたような事態が、オウム真理教の一連の事件でした。「なんだよ、その顔は? いつもみたいに笑われて、泣きべそかいてろよ……ああん? なんだそのオモチャの銃は? 撃てるもんなら──ギャアアア!」みたいな感じですね。なんのことはない、左派を冷笑するSNSと、俺たちを冷笑するなと騒ぐ左派の関係性は、と学会とオウム真理教のそれに似ていました。そして起きた、安倍晋三元総理暗殺事件……。

■サブカルチャーの正体■

60年安保70年安保の挫折以降、保守派に転向して与党精神で社会を変えるわけでなく、かといってガチの極左は馬鹿にしててなれず、支持政党はないとうそぶきつつ、真ん中やや左寄りのポジションで高みの見物をしたかったのが、平成という時代の和製サブカルの本質だったと、自分は思います。メインカルチャーに抗う力はないけれど、同化するつもりもない。だからカウンターカルチャーとしてのサブカルチャーに、縋った世代。

これが小室直樹先生の世代ならば、なぜ日本は戦争に負けたのかという、大きな挫折体験があり。呉智英夫子ら全共闘世代には、学生運動失敗の挫折経験が、核にあったのですが。1951年生まれの押井守監督から60年生まれの辻元清美議員ぐらいまでの、〝気分は遅れてきた全共闘世代〟の問題でもあったと思います。と学会の主要メンバーもまた、多くがこの世代に含まれるんですよね。

この世代は挫折体験なき、でも上の世代に影響された世代です。同時にオタクの元祖と言える、昭和33年から35年の生まれを含む世代でもあるのですけれど。宗教に絡むことですから、あえて言えば和製サブカルは衆中の救済を訴えた大乗仏教的であり、オタクは個人の解脱を求めた上座部仏教的であった、と言えます。だから、対立したのですが。ただ、宗教に興味がない人から見たら、「両方とも同じ仏教でしょ、なんで喧嘩してるの?」となる訳で。

■大乗仏教と上座部仏教■

大乗仏教と上座部仏教の違いついては、ほとんどの人は知らないでしょうし。西遊記で三蔵法師が、天竺まで取りに行ったお経が、大乗仏教のお経だった、ぐらいの理解でしょう。衆中の救済を訴えたのが大乗仏教で、個人の解脱を求めたのが上座部仏教。上座部仏教を大乗仏教側は、見下して小乗仏教と呼んでいたため、なおさら大乗仏教が偉くて上座部仏教はミーイズム的でダメだという、漠然とした認識を持つ人が、多いのではないでしょうか。

でも実際には、スリランカやチベット、東南アジアなどに残る上座部仏教が、原始仏教の姿に近いようです。仏教に限らず多くの宗教で、当初は個人の心の問題であったはずの宗教が、やがて大衆の救済や社会問題の解決に、変質することはよくある話です。なので、大乗仏教と上座部仏教の、上下優劣大小を論じても、意味がありません。ただしサブカル大乗仏教には、大衆を救う方法論はなかったのが問題で…。

和製サブカルは、カウンターカルチャーとして表面上は別の思想のように、偽装はしましたが。芯にあったのは、世俗化して薄まって、原型が解らなくなった共産主義思想でした。これは例えて言うならば、69年のウッドストックを嚆矢として、80年代に大きな潮流となったニューエイジ運動が、表面上は仏教などの思考を取り入れて、反キリスト教的に見えながら、実はキリスト教文化の影響から抜け出せていなかったのと、同じです。

そう、唯物論と無神論を掲げ、宗教はアヘンだと喝破したマルクスの共産主義思想が、ユダヤ・キリスト教の千年王国思想を焼き直したものだったのと、同じです。興味がある方は、下記のnoteもお読みください。

■大衆救済は政治と地続き■

大衆救済を訴えれば、政治性を帯びます。必ず。一神教のルーツであるユダヤ教は、バビロン捕囚で民族消滅の危機に陥ったユダヤ人が、それに抗うために民族団結の紐帯として、刷新された面があります。個人ではなく集団の権利を守るという、政治性を最初から帯びていたんですね。より多くの人が救われる、大乗仏教的なモノに、より多くの人が引き付けられるのは、当然といえば当然の成り行きでした。

しかし、例えばチャップリンの名作『独裁者』は、ヒトラーがいなくなれば、その意味を減じます。ですが、バスター・キートンの身体を張った笑いは、政治性はなくてもなかなか古びない。『独裁者』でも、地球儀と戯れるチャップリンの身体表現や、長回しの演説シーンでの話芸と表現力、演出は時代を超えて生き残るでしょう。ミーイズムと批判された、上座部仏教的なオタクの方が、世界に通用してしまった理由と、少し似ています。

厳しいことを言えば押井守〜辻元清美世代とは、ヒトラーを批判しスターリンや、毛沢東や金日成を賞賛してしまった、戦後文化人の尻尾に過ぎなかった、と言うことになります。それら戦後文化人は1954年に、福田恆存の『平和論の進め方についての疑問』で批判されたのですが。遅れて生まれた世代は、そこから逃れ得たのです。60年安保70年安保世代のように、政治性をあまり強く出さないようにして、安全圏から批判するポジションを得ようとしたから。

ここらへんは佐藤健志氏が、と学会がメジャーデビューする前の1992年に、『ゴジラとヤマトとボクらの民主主義』で指摘したことです。

■世界の救済・個人の解脱■

自分は、『機動戦士ガンダム』の主人公のアムロはもちろん、軍人然としたランバ・ラルやドズルでもないけど、シャアやカイぐらいの影の主役や世を拗ねたカッチョいいポジションだと思ってたら、実際はギレンを撃ち殺したキシリアのポジションだった……みたいな? 一方的に隣国ウクライナに攻め込み、非武装化と中立化を要求するプーチン大統領の暴挙で、憲法九条教が瓦解したように。オウム真理教の時にはむしろ批判者として評価さえされた、と学会的なポジションは、汚染水を連呼する左派文化人や山本太郎れいわ新選組的なモノに、対応できずにいます。

オタクに世界は救えなかったが、個人は救えた。
だが和製サブカルには、世界も個人も救えなかった。

乱暴な結論をすれば、こうなってしまいます。と学会にも、原田実先生ら、ちゃんと現在の状況に対応できている人もいます。それは、キクマコ先生も同じです。でもそういう人は、本業で確固たる軸がある、スペシャリストでもありました。ところが、と学会員の多くは評論家やライターなど、ゼネラリストでしたから。そして、表面上のポーズはどうあれ、ふとした弾みに左派的党派制が出てきてしまう。オウムの頃には深刻でなかった問題が、20年代にはいろんな事象で、吹き出している現状です。

と学会を世に知らしめた雑誌の宝島30が、1993年前半に創刊され。同誌の中心的編集者で、と学会を送り出した町山智浩氏が、1990年7月刊行の『別冊宝島』114号にて、宗教学者の島田裕巳教授に「オウム真理教はディズニーランドである」なる文章を寄稿してもらった張本人であったことぐらい、周知の事実かと。島田教授はオウムの凶悪性が暴かれると、それで学者として大学の職を追われます。そういう意味では、キクマコ先生のと学会批判は、近年は左傾化が著しい町山智浩氏への、批判でもあります。

■と学会内左派の限界■

こちらの引用ポスト、簡潔にして的確でした。「ノンポリを至高とし、科学的知見(つまりSF至上主義)を定点として世論を切り、物事を笑い飛ばし反権力に生きていこう」というのは、と学会の本質を評しています。メインカルチャーに対抗できるサブカルチャーとして、反権力の部分は極力覆い隠して。もちろん「いいや、●●氏はそうではない」的な反論はあるでしょうけれど、それはあまり意味がない訳で。「ヒトラーは良い政策もあった」という反論と同じですから。全否定か全肯定かって、まさに一神教系の最後の審判的発想です。

2024年現在から「と学会」を総括すると
「ノンポリを至高とし、
科学的知見(つまりSF至上主義)を定点として世論を切り、物事を笑い飛ばし反権力に生きていこう」
的な話になるんだよね

科学デマには有効だが、宗教や政治には無力だった
90年代サブカルは価値を生み出せずツッコミしか出来ないから

https://x.com/kawanantokasan_/status/1761237742946807934?s=20

ただ、ノンポリと言いながら実際は、と学会には政治色はありました。彼らのネタ元の、海外の疑似科学批判の多くは、キリスト教保守派に対するカウンターカルチャーでしたから。と学会が、その影響を無意識に受けるのは、当然でしょう。ガリレオ・ガリレイの天動説やダーウィンの進化論などは、聖書のキリスト教的な価値観と、ずっと対立し続けましたから。

然るに志水先生や原田先生ら、右寄りと目された方が政治的な事象に対応できた姿を見ても、キクマコ先生の批判の本質を自分なりに解釈すれば、と学会内左派の限界でもあった、と言うことです。

■プロレス内プロレス■

プロレスに例えるなら。力道山やジャイアント馬場の、アメリカンスタイルの王道プロレスがあって。それを、プロレス内プロレスだと批判して、アントニオ猪木がストロングスタイルを提唱し、差別化に成功(正確には、プロレス内プロレスってのは、猪木信者の村松友視さんの定義ですが)。ところが、より格闘色の強いUWFが出てきて、新日ストロングスタイルは批判されます。UWFは一世を風靡し、いろいろあって分裂はしますが、さらに格闘色の強いパンクラスなども生み出します。

ところがところが、グレイシー柔術と総合格闘技が出てきて、UWFを追放された佐山サトル氏がヒクソン・グレイシーを招聘し、プロレスラーを次々と撃破する事態が発生。そうなると、ストロングスタイルもUWFスタイルも、実際はプロレス内プロレスだと批判されます。戦前戦後の共産党系左翼がジャイアント馬場のアメリカン・スタイルで、新左翼が新日ストロングスタイルで、と学会や押井〜辻元世代がUWFスタイルと考えると、解りやすいでしょう。プロレスファンじゃないと、かえって解りづらいか?

ただプロレスは、総合格闘技でも勝てる桜庭・高坂・藤田選手らなどが登場し。それ以前から、八百長だガチンコだという論争を超えて、楽しいプロレスを見せていた、みちのくプロレスみたいな存在もあり。ノーロープ有刺鉄線電流爆破のFMWの邪道路線もあり。平成のデルフィンたち、と批判された時代もありましたが逆に、プロレス冬の時代を乗り越えて、馬場さんの王道プロレスに回帰し、再評価されたり。王道も異端も含めて、プロレスを楽しむ、ファンの成熟が起きました。

■ひとまずの締め■

と学会批判だけしても、荻上チキイズムですから、多少は建設的な提案をするならば。たぶん言論界もまた、総合格闘でも通用するプロレスラーや、総合格闘技では表現できないモノを表現できるプロレスラーのような、あるいは再評価されるようなアメリカンスタイルの王道が、求められているのでしょう。個人的には、と学会から出たキクマコ先生や原田先生が、桜庭和志やTKだと思っていますし、岸信介や安倍晋三が和式のリベラルであったと、左派が再評価できたら、それが成熟なのかも知れないと、個人的には思います。知らんけど。

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以下、ネタバレを含むので有料とします。ただし内容的には大したことは書いていませんので、興味があって著作権法を遵守できる人だけどうぞm(_ _)m ただ投げ銭を出すよりは、お得感があった方がいいでしょうから。ちょっと遅いバレンタインデーのプレゼントがわりに300円ぐらい恵んでやろうという、心の広い方だけお願いします( ´ ▽ ` )ノ

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