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「どう書くか」よりも「何を書くか」

◉小説家の鈴木輝一郎先生のツイートが、興味深かったので転載します。

ヘッダーはMANZEMIのロゴより、平田弘史先生最後の揮毫です。

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■中身がない理由■

これは小説に限らず、漫画の投稿者でもよくある現象です。絵はとても上手いのに、作品の内容がイマイチ。原因は大雑把に分けて、3つぐらいありそうです。

①中身がないという自覚がない
②中身があると自信満々だから
③中身がなくても技術があれば、鑑賞に耐える作品になると思っている

①と②は同じじゃないかと思いがちですが、違います。①はそもそも、他の作品をあまり読んでいないので、基準がわかっていない人が陥りがちなパターンです。こういう人は、数をこなす中で自分自身の実力を理解し、プロレベルの作話能力を身につけることもあれば、趣味としてアマチュアで漫画を楽しむことに舵を切る人、描くのを辞めて読者に徹する人、人それぞれです。

②が問題で、それなりの数の作品を読んでいるにもかかわらず、自分自身の作品に対する客観的な評価ができないタイプです。京都アニメーション放火事件を起こした、基地の外に出てしまった犯人も、自分の作品が京都アニメーションに盗作されるほどレベルが高いと、思い込んでいたわけです。プロのクリエイターであっても、自分自身の作品を冷静客観に評価するのは、かなり難しいのですが……。

■恍惚と不安と■

プロは自作にネガティブな評価をしがちで、そうでない人はポジティブな評価をしがち。これは割と重要な視点です。プロとして創作し、明らかに自分よりも才能があり、アイデアも素晴らしく、本人も努力を惜しまないのに、自分より売れていない人をたくさん見るからです。自分が売れているのは運に過ぎないのでは……という、現実に向き合うわけです。今日アニ放火事件の犯人は、その点でも才能がなかったと断言できます。

Beatlesのポール・マッカートニーが名曲『Yesterday』を作ったとき、あまりにも すんなりできたために、無意識に盗作したのではないかと不安になったとか。あれほどの才能がある人でもそんなものですから。自信のない若者に、安易に「自信を持て!」という無責任な大人に、自分は懐疑的です。自信のある・ないは、創作ではさほど重要なファクターではありませんから。自信がなくても客観視できる人間は、ほっとても伸びます。

太宰治の『葉』の冒頭に、『撰えらばれてあることの 恍惚こうこつと不安と 二つわれにあり』という、ヴェルレエヌ(ポール・ヴェルレーヌ)の詩からの言葉がありますが。優れたクリエイターというのは恍惚と不安、その両方を常に持っているものです。自信がある・ないのゼロイチで割り切れるものではないので、安易で雑なアドバイスは、クリエイターの繊細な気持ちを傷つけるだけです。

■生存者バイアス■

中身と言ってしまうと、幅が広くなってしまうのですが。要は、一次審査でよく見かける、アイデアも展開もキャラもセリフもよく似た、作品群です。もちろん、誰かの盗作ではなく。結果的に内容が似てしまう、凡庸な作品です。昔だと、天使・死神・金銀妖瞳・巨大な剣を背負った剣士などが出てくる投稿作品群です。漫画賞や小説賞の下読みをしたことがある編集者ならば、食傷とはこういうことかと実感します。

そういう作品は、だいたい一次審査で落とされ、最終選考に残らないのですが、「最終審査に似た作品がないので、オリジナリティがある作品だと思っていた」という投稿者は、けっこういます。あるいは、作品を構成する要素は凡庸でも、そこを突き破ってヒットする作品があったりするので、勘違いしてしまうわけです。『ベルセルク』と同じアイデアを自分も中学校も頃には 思いついていた……なんて挫折組は、よくいます。

残念ながらそれは、優れたアイデアではなく。長大な剣なら永井豪先生の『バイレンス・ジャック』の斬馬刀、片腕が義手なら石川賢先生の『500光年の虎』や、もっと言ってしまえば手塚治虫先生の『どろろ』など、ルーツはいくらでもあります。それをガッツやコブラのサイコガン、『風の谷のナウシカ』のクシャナや『鋼の錬金術師』のエドなど、どれだけ オリジナル性を加えて 自分のキャラクターに育てられるか ですから。

■プロとアマの差は小さい■

③に関しては、漫画でも小説でも同じ勘違いをしている人が多いですね。漫画の場合は絵という解りやすい差別化の要素があるので、特にあります。確かに高い画力は人目を引き、内容の稚拙さを誤魔化してはくれます。でも内容がない作品は、長い目で見ると読者に飽きられちゃうんですよね。さらに読者は、漫画家が思ってるほど、画力は気にしていません。Amazonの売上ランキングを見ても、上位は話が抜群に上手い作品がほとんどです。

小説の筆力も実際のところ、プロの作家とアマチュアの作家に、そこまでの筆力の差はありません。これは、鳥山仁先生も指摘されておりましたが。そりゃあ、漱石や鷗外の文豪レベルの名文は、そうそう書けませんが。小説は決め台詞のような名文だけで、できているわけではなく、97%は平凡な文章の積み重ねです。

■むしろ平凡な文章を書く■

何がどうしてどうなったの因果関係、主語と述語の位置関係、形容詞と被形容語句の位置が離れすぎたりおかしくなければ、文章は普通に読めます。タイポグリセミアで有名になりましたが。極端な話、誤字であってさえ文意が通れば無問題です。だいたい、小説家になるような人間は書物を大量に読み、自然に身につけていることです。それ以上の技術を追求しても、ただのオーバースペックでしかない可能性が高いです。

にんんげ は もじ を にしんき する とき その さしいょ と さいご の もさじえ あいてっれば じばんゅん は めくちちゃゃ でも ちんゃと よめる という けゅきんう に もづいとて わざと もじの じんばゅん を いかれえて あまりす。

むしろ、文章読本などを読み漁って、過剰な技工をゴテゴテと使った文章の方が、かえって読みづらくなってしまいます。花嫁修行で料理学校に行くと、レストランなどで出すような、技術が必要な凝った料理を教えるのですが。実際は、平凡な家庭料理の方が、需要があるように。なので、ウチの講座では凝った技術ではなく、むしろ特徴のない、技術的には平凡な文章を書く訓練をしています。そして、ニュアンスを伝える方法を。

写実的な絵に関して言えば魔夜峰央先生が、スーパーリアルまで行けば意味が出てくるかもしれないが、普通の漫画だったら意味を感じないと。ビルを緻密に描くよりは、自分ならビルのシルエットをベタで塗って『新宿』と写植を置けば、そこは新宿になると。絵を描くのに費やす時間をギャグの1つでも考えることに回したい、と語っておられましたね。それが、中身を作るということです。そこを履き違える人が多いですが。

■観客目線と演者目線■

例えば、落語好きが昂じて、会社を辞めて落語家に弟子入りする人によく起きる現象に、「自分は落語を聞くのが大好きだが、人前で話すのはそんなに好きではなかった」と気づく現象があります。あるいは天狗連として、仲間内で発表会をやっている時は楽しかったけれど、仕事としてやるとこんなに楽しくないことだと気づいた、という人もいるようです。古今亭志ん朝師匠も、落語を聞くのも演じるのも稽古も好きだが、人前で演じるのは嫌いと公言されていました。

漫画家や小説家を目指してる人の多くも、この陥穽にハマるようで。 読むのが大好きなので自分も書いてみたくなる。しかし、観客目線で技術論に走るけれど、演者目線が欠落しています。まぁ、そこから評論家や編集者になって、妙な作品論を振り回す人間も出るのですが。五代目柳家小さん師匠は、子供の頃からしゃべるのが好きで、小学校の先生がそんなに好きならと、クラスでしゃべる時間をわざわざ作ってくれたとか。

プロになるなら、こっちの資質のほうが大事なんでしょう。好きの気持ちがあれば、技術は後からついてきますから。もちろん才能の限界はありますが、それでもプロには充分になれるので。そういう部分はあるけれど、自分の能力が客観視できないという人は、うちのこうざにくれウチの講座に来れば、同期の中にとんでもない才能の人間が一人ぐらいはいますので、そこで自分の能力を測るのも良いでしょう。

■才能を磨くのは才能■

世界で最も硬いダイヤモンドを磨くためには、ダイヤモンドの粉を使うように。才能というのは、才能によってしか磨かれません。講座で出される数々の課題や習作で、才能ある人間はそんな発想をするのかという驚きを体験するのは、絶対に必要です。高橋留美子先生の高校の同級生に近藤ようこ先生がいて、同じ漫研で切磋琢磨し。細野不二彦先生の高校の同級生に、美樹本晴彦先生や河本正治監督や大野木寛氏などがいたように。

上條淳士先生とYokoさんと中津賢也先生と松本大洋先生が、同じ高校の先輩後輩であったように。スポーツの世界でも強い人間と一緒に練習しないとレベルは上がりませんからね。レベルの高い相手と練習することによって、自分の才能のレベルを測るというのが大きいのかもしれません。この人が・これぐらいの才能で・これぐらいの努力をしているのならば、自分はどれぐらいの努力が必要か、見えてきます。

あとは、ウチの講座の実績。必ずしもプロを目指している講座ではありませんが、デビュー率もデビュー数もかなり高いと自負しています。「喜多野は漫画家でもないくせに、偉そうに技術を語ってる」と、陰口を叩く人もいますが。では、あなたは何人の素人をデビューに導いたのかと。漫画家でなければ 漫画家を育てられないのならば、編集者なんかは必要ないですし、名伯楽もいないでしょう。

名選手、名監督にあらずなんて例は、いくらでもあります。張本勲さんは「名球会は最下位監督会」と皮肉を言われていましたが。そんなもんです。トキワ荘プロジェクトから120人以上、MANZEMI講座から60人以上の漫画家アニメーター小説家イラストレーターを出していますしね。編集者時代や大学や専門学校の講師時代を含めれば、100人以上ですか。

どっとはらい( ´ ▽ ` )ノ

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