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ウィル・スミス氏の平手打ち問題

◉俳優のウィル・スミス氏が、アカデミー賞の授賞式の最中に、奥さんをからかうようなジョークを言ったコメディアンに平手打ちをかまし、この件に関して賛否両論沸き起こっています。個人的には、スミス氏の怒りはもっともだと思いますが、だからといって暴力に訴えた時点でダメでしょう。ここは、動かない。ちなみに鹿児島の人間なので、平手打ちのことをビンタと呼ぶのはピンと来ません。鹿児島弁では、ビンタとは頭部のことなので。

【W・スミスさん、授賞式で平手打ち 芸人のジョークに激怒―米アカデミー賞】時事通信社

 【ロサンゼルス時事】米ロサンゼルスで27日夜に開かれたアカデミー賞の授賞式中、俳優のウィル・スミスさんが突如ステージに上がり、コメディアンのクリス・ロックさんを平手打ちする一幕があった。スミスさんの妻で女優のジェイダ・ピンケット・スミスさんに向けたジョークに激怒した。

ヘッダーはnoteのフォトギャラリーより、ビンタで検索したらヒットしたイラストを使わせていただきました。殺伐とした話題なので、せめてヘッダーは可愛らしくと思い。

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■アメリカの持つ危うさ■

個人的には、奥さんを侮辱されて黙っていられるかという気持ちは、すごくよくわかります。今回の件に関して言えば、日本人の間ではやはりよくやったという感じで、同情的な意見が多いようにも感じます。ただ、これはそんな単純な問題でもなく。アメリカとか、銃社会でバンバン人が死んでいるような文化だという面はあるわけで。BLMが、愛国無罪と同じように黒人無罪で暴走してしまうような、アメリカの暴力性の問題もあるのです。

日本の場合は良くも悪くも村社会で、争いが殺人まで至る確率はアメリカよりもずいぶん低い。多民族国家と、比較的人種が固まっている社会との、違いもあります。気に入らない人間は殴っていいという認識が広まってしまうと、容易に犯罪に走ってしまう文化がある。日本人から見ると神経質なぐらい、アニメから暴力やエロを排除するのは、それだけアメリカという国が不安定で危うい国だということでもあるでしょう。

■ジョークの文化差■

ただ同時に、クリス・ロック氏のジョークも、とても低レベルでひどい内容だと思います。自分たちが小中学生の頃は、アメリカン・ジョークというのは、つまらない冗談の意味で使われていました。単純に文化が違うとか、英語による細かなニュアンスが伝わらないのかなとも思っていたのですが。例えばイギリスやフランス、ロシアなどのジョーク集は、戦前から翻訳されて日本でも愛好されてきたわけで。

昭和の名人・古今亭志ん生が、売れなかった時代に古本屋でフランス小話集を購入していた、なんてエピソードもあるぐらいに。モンティパイソンを生んだイギリスは、さすがに皮肉が効いたジョークが多いですし。フランス小話はちょっとエッチなやつとかに秀作が多いですし。ロシア小話は、帝政ロシアの時代もソビエト連邦の時代も、一歩間違えば死刑になりかねない体制批判を笑いに包んだ、骨太なものが多い気がします。喫煙令でシベリア送りになっても、なおタバコを吸う国民性ゆえ。

■アメリカン話芸の問題■

アメリカだって、戦前のチャップリンやバスター・キートンの映画など今見ても面白い、体を張った笑いがあるわけで。それはマルクス兄弟などの作品にしてもそうですね。ところが、しゃべくりの笑いになると突然、下品と言うか幼稚な笑いになってしまう。もちろん、例えば三波伸介さんは息子さんに、ボブ・ホープを見ろと言ってたぐらい、優れた話芸はあるのですが。でもチャップリンもホープも、イギリス生まれですしね。

アメリカ人は味覚音痴というステレオタイプも、確かに文化的な影響が大きいイギリスの料理はあまり美味しくないですが、そこは多民族国家はゆえ、フランスやイタリアやスペインなど、魚介類の甘さを引き出す美味しい料理を持つ国がルーツの人も多いですしね。でも、ジョークはイマイチ。どうもアメリカでは、コメディアンにはユダヤ人が多く、その出自を背景としたエスニック・ジョークというのが、多いそうなのですが……。

■属人性と普遍性と■

例えば、白人が黒人にニ●ーと言ったら殺されても文句は言えないけれど、これが黒人同士だと親密感を表すためか、割と平気でブラザーみたいな感じで●ガーと使う。これってある意味、黒人以外の人種が使えない言葉でもあるわけで、でもそれは立場によっては NGワードではなくなってしまう。排他性と親密性というのは、コインの裏表。ナチスの理論的支柱になった法学者カール・シュミッツの友敵理論とも通底しますが。

これは同様に、欧米では差別されているユダヤ人という立場だからこそ言える、他民族をからかうエスニック・ジョークというのが成立している。でもそれって、立場によりかかったもので、本当には話芸と言えるのでしょうか? イギリス人がやろうが日本人がやろうが白人がやろうがアジア人がやろうが、普遍的な面白さを持っているのが芸だと思うのですけれど。もちろん民族性と不可分の笑いもありますが、その民族の中では誰がやっても面白い。

■寛容と非寛容との基準■

今回の件に関連して、アカデミー賞の司会者のジョークがいかに下品だったり幼稚だったりしているか、流れてきましたが。アメリカの本家アカデミー賞も、『新聞記者』にお手盛りで作品賞ほか6冠を与えてしまう日本アカデミー賞と一緒で、左派の発言力が強くなりすぎて、ポリティカルコレクトネスに配慮しすぎた結果、一周回って変なことになっているような気も。こんなの、起用するほうがダメでしょ?

ウィル・スミス氏とその奥さんのようなセレブならば、病気に由来する外見の問題であっても笑いにしていいってのは、おかしいです。安倍晋三元総理大臣の難病を、笑いモノにしていいと強弁する左派の下品さとも、通底しませんか? 検察も検察審査会も野党も、なんの証拠も出せなかった森友学園問題を、アッキード事件と呼んだ山本太郎議員を、安倍総理が答弁せず殴ったら、拍手喝采しますか? 自分は保守派ですが、しませんよ。

この問題は暴力の是非という点以上に、大きな問題をはらんでいるような気がするのです。寛容を求める部分と、細かな部分を論う非寛容が、恣意的に運用されていませんか? それってダブルスタンダードですよね? 法政大学教授が時代劇の言葉をもじって、総理大臣を人間じゃねぇだのたたっ斬ってやるだの言ったり。あるいは気に入らないミュージシャンの発言に、彼女は早く死ぬべきだったとか。「ギャルゲーでヌキながら、性犯罪を犯さずに、平和に滅びていってくれればいい」とか、下品で愚劣な言葉が党派性で咎められない。

■放伐と暴力と革命■

でも、それでも。ウィル・スミス氏の怒りは理解できますが、手が出てしまったことはアウト。これに関して言えば、ハル・ノートと真珠湾攻撃の関係みたいなものでしょう。確かにハル・ノートはひどい内容でしたが、それはある意味日本に誤読させて戦争に誘う陰謀論と考えられても、不思議はない内容なのですから。そこで真珠湾攻撃をするのは当然と考えるか、その酷さを国際世論に訴えるという努力をすべきと考えるか。その違い。

ウクライナのゼレンスキー大統領とか、まさにその言葉の力で着々と味方を増やしているわけで。もちろん、ロシアの暴力に対して対抗する、別の暴力は必要なわけで。ウィル・スミス氏があそこで殴るという行為に出る以外に、謝罪を要求して相手が断ったらアカデミー賞辞退をボイコットするという選択肢もあったでしょうに。そうなったら、主演男優賞俳優がボイコットしたという前代未聞の結果になり、クリス・ロック氏へのダメージも大きかったでしょう。

ただ、ここら辺は結果論ですし。ただ、東洋では放伐に関する論争というのが数千年続いています。夏王朝の桀王の暴虐に、後に殷王朝を開く湯王は桀王を追し。殷の紂王の暴虐に、後に周王朝を開いた武王は征しました。両方とも暴力革命によって暴虐の魔王が取り除かれ、平和な時代がやってきたわけですが。こういうのは結果論に過ぎないわけで。綺麗事と言われても、原理原則としては放伐は否定されないと、平和を維持できないです。ここら辺は、落語の『徂徠豆腐』の問題と同じでしょう。

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