見出し画像

日本アニメが追い抜かれる日

◉大学や専門学校で、漫画家やアニメーターを目指す中国人留学生を教えていましたが、彼らは真面目で勉強熱心でしたからね。中国の表現規制の問題は置いておいても、日本にキャッチアップして来たのは当然でしょう。というか、家電とか半導体の物作りの次は、コンテンツビジネスだと、明確に指針を持ってますから。漫画やアニメやゲームを未だにローカルチャーだと見下す文化人が後をたたない日本とは、状況が違います。専門学校での最初の教え子世代が今はアラサー、現場の主力になっていますから。

【「日本のアニメ」は家電や邦画と同じ道を歩んでしまうのか】ITmediaビジネス

 技術や品質が「下」だとみくびっていた相手に、いつの間にか追い抜かれてしまう。そんな悪夢が再び繰り返されてしまうのだろうか。
 最近、さまざまなメディアや専門家の間で、「日本のアニメ産業が海外で負けてしまうのでは」という脅威論が唱えられることが多くなってきた。
 ご存じのように、アニメといえば日本のお家芸。ジブリにワンピース、進撃の巨人、最近では鬼滅の刃に呪術廻戦など、海外でも人気のアニメ作品は例を挙げればキリがない。が、そんな「世界一のアニメ大国」の座を、中国や韓国が脅かしつつあるというのだ。

ヘッダーの写真はMANZEMIのロゴ、アキラなどの大事で知られ、三島由紀夫もファンであった平田弘史先生の揮毫です。

◉…▲▼▲▽△▽▲▼▲▽△▽▲▼▲…◉

■白物家電や半導体だけでなく■

そもそも、2008年の第61回カンヌ国際映画祭のコンペティションで初上映されたアニメ映画『戦場でワルツを』の時点で、アニメは表現の一手段として世界がもうキャッチアップしていたわけで。イスラエルのレバノン内戦の問題を描いた同作とか、アニメにしかできない表現でした。「日本のアニメは世界一ィ~!」という国粋主義者と、「アニメはガキのためのレベルが低い表現」という見下しの、両極端な層にはそういう現実は見えていませんね。アニメを年間ランキングから排除する映画芸術とか、一番ダメな事例ですが。

同じく2008年公開の『カンフー・パンダ』を見た中国共産党の偉い人が、我が国でなぜこれが作れないのかと、嘆いたとか。ゆえに、自分のクラスを受講した30代の女性、英語とフランス語が堪能で日本語も勉強し、プロデューサーとしてアニメを学びに来ていたんです。日本のアニメ界で、ピクサーやディズニー、DreamWorksに数年間、プロデューサーを勉強に出す製作事務所やテレビ局がありますか? その時点で負けてるんですよ。そっち方面の必要性も感じていないので。

記事では白物家電や半導体が言及されていますが、例えば東洋の魔女のバレーボールや、お家芸と言われた体操やレスリングで、日本は一世を風靡し、でも他国に研究されても過去の成功体験が忘れられず、昔の手法に固執し、泥沼にハマるという事例も多いです。その意味では、鉄棒で月面宙返りや新技を次々と開発して、でも時代の趨勢が降り技からコバチやゲイロードなどの離れ技に移行していたのに気がつかず世界と差がついた体操は、そこからもう一度盛り返した点で、日本再生を考えるヒントが、有るような気がしますね。

■ローカルチャーがハイカルチャーになる文化■

日本の文化を見ると、御上が主導して成功する場合よりも、大衆の中から出てきて、あるいはハイカルチャーが大衆に根付いて成長した分野に、世界に通用する例が多いですね。和歌なども、万葉集の時代に詠み人知らずの名作があり、明らかに庶民の女性が防人に出る夫の身を案じた作品とか、天皇も庶民も和歌を残す。ハイカルチャーとローカルチャーの境界線が、階級社会の欧州や中華とは、だいぶ違うのですが。

幕末明治に来日した外国人は、裏長屋の住人が朝顔の品種改良で変わり種を競っていたり、ちょっとしたコレクションをしてるのを見て、「欧州なら貴族の趣味を庶民がやってる」と、驚いたそうですが。その品種改良、武士も庶民もやってたわけで。能や歌舞伎、浮世絵に根付、俳句に黄表紙、講談に落語、漫画にアニメにゲームにと、多くがそうですね。そもそも、宮本武蔵にしても古今亭志ん生や手塚治虫先生にしても、独学や天狗連が名人や第一人者になる文化です。

もちろん先駆者は天才っちゃあ天才なんですが、天才が切り開いた文化の跡地に才能が集まって、好き勝手に無手勝流でやる中で、知見が蓄積されノウハウがたまり、新たな文化になる。つまり、ローカルチャーがハイカルチャーになる文化が日本の特徴です。なので、迂闊に政治がクチバシを突っ込まないほうが、上手くいくわけで。秋元康商法とか、文化は育てませんから(勝手に育つ部分は否定しませんが)。ここは日本の強みでしょう。

■日本だから漫画と小説に可能性がある■

ただ、作品作りって工業製品ではないですからね。ノウハウは確かにありますが、それでヒット作や名作が作れるはずも無し。それはハリウッドでも同じですから。作品作りは、個人の名人芸の部分も大きいです。それよりも大事なことは、才能が発芽する土壌。そこで自分が重視しているのが、小説と漫画なんですよね。映画やアニメはたしかに膨大な人件費や制作費が懸かり、潤沢な制作費を中国がぶち込んできたら、日本は勝てない部分はあるでしょう。映画がそうであったように。

でもその分、リスクも大きい。コケたら、会社が倒産するほどのダメージもありますしね。アニメ全盛期でも金が回っていなかった日本では、今後も資金面であまり期待できません。ですが、先ごろ亡くなられたさいとう・たかを先生が、手塚治虫先生の作品を見て、「紙とペンで映画が作れる」と思ったように。作家の才能は漫画家が低レベルで映画監督がハイレベル、なんてことはないわけです。才能ある人は、どんどん出てくる土壌が大事。その点で、漫画は映画やアニメより遥かにお手軽で、しかも世界に通用しますから。

加えて、小説。ラノベやなろう小説をバカにする人がいますが、それこそ映画芸術や平田オリザ氏と同じ高慢増上慢でしょう。いがらしみきお先生がエロ劇画誌の中でもステータスが低かったエロジェニカでデビューしたように、出自で笑う人はただの権威主義者。もっと言えば差別主義者でしょう。そこから才能が出てくることが大事。自分はむしろ、日本の文化的にはこれは次の文化の胎動だろうと、思っています。

■個人出版の可能性に期待■

作品作りと作品発表が、出版社を通さなくても出来る時代。今はまだ、プロや兼業プロが元編集者や編集プロダクションと組んで個人出版をやっていますが。いちおう自分は、漫画の描き方を教える立場ですが。これはあくまでも才能に欠けた人間が、減らせるミスを減らして完成度を高めるためのものです。つまらないと思う人も多いでしょうけれども、あんがい致命的なミスに気づかず、全体の評価を下げている当落線上の人は多いのです。

がんばれ同期ちゃん』が同人誌からアニメ化されたり、DMM同人のヒット作が億単位の売上を出し、メジャー誌に逆輸入される時代ですから。出版社のフィルターにかからなかった才能が、世に出ることも今後増えていくでしょう。もちろん、そこで法的な逸脱行為とかすれば、潰される危険性もありますからね。そういう意味では、校閲的なノウハウも今後、一般に共有されるでしょうね。もちろん、覚悟を持って確信犯的に法に挑むのも、自己責任で〝あり〟です。

いずれにしろ、芸能界が大手芸能事務所と中小事務所、特殊なジャンルに特化した事務所、個人事務所に分かれて、それぞれ棲み分けているように。出版社もそういう感じでどんどん分社化して、ビッグビジネスを追う出版社とジャンルに特化した出版社と、ある程度ヒットを出して編集者を雇って個人出版社をはじめる人、それぞれ分かれるでしょう。そうなったときに、多少なりともお手伝いができれば、自分は満足ですかね。もうちょっと頑張って長生きしないと。

どっとはらい( ´ ▽ ` )ノ

売文業者に投げ銭をしてみたい方は、ぜひどうぞ( ´ ▽ ` )ノ