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画像生成AIとイラストの未来

◉画像生成AI、どうもNovel AIなどが話題になっているようですね。小説家でもある小森健太朗先生とか、文字の指定だけでいろんな絵を生成する作業を、繰り返していらっしゃいます。個人的には、精度が高いなと思います。ただ、どうしても日本のアニメ絵の基本形に似ていて、常にどこかで見た絵になってしまうんですよね。小森先生は、そこでオリジナルの絵に似せるチャレンジとかやっておられますが。絵というのは面白いもんで、作家ごとに度の人の影響を受けたか、系譜が見えるんです。オリジナリティって何か、なかなかに難しいですね。

ヘッダーはMANZEMIのロゴより、三島由紀夫が絶賛した平田弘史先生の、揮毫です。

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■オリジナリティが財産■

例えば、浅田弘幸先生とか、デビュー当初は上條淳士先生の影響は顕著で、自分はてっきりアシスタント出身だと思い。斉藤むねお先生に、連絡先を聞いたほどでした。御本人は上條淳士先生にお会いした時、上條先生のファンから「バカ」とか「タヒね」というファンレター(?)をもらうと、正直に語ったそうですが。上條先生、自分もデビュー当時は大友克洋先生の影響が強く、大友先生のファンから「バカ」とか「タヒね」というファンレターをもらったが、自分のオリジナリティが出てきたら、そんな手紙は来なくなったので、気にする必要はないよと、アドバイスされたとか。

実際、浅田先生は『-I'll-』で独自性を高め、『テガミバチ』では完全に独自の絵柄と言える感じになられています。誰の影響も受けずに作家は最初からスタートはできませんから。上條先生が影響を受けた大友克洋先生も、フランスのメビウスの影響は顕著ですし。Twitterなどを見ていると、類似性を断言している、危うい人は多いですが。ここらへんは、創作という点に関しては、なかなか微妙な部分がありますから。クエンティン・タランティーノ監督のように、影響を受けた先をオープンにし、その上で自分のオリジナリティをどう出していくか……だと思いますし。

■一流の仕事は奪えない■

AIに関して自分は、一流のプロである漫画家の仕事やイラストレーターの仕事はそんなに奪わないが、三流の仕事は奪うだろうな、と思っています。初音ミクが出てきたとき、これがプロの仕事を奪うわけがないという人は多かったですが。知り合いのスタジオミュージシャンが、これは楽譜が読めないアイドルのために仮歌を歌うタイプの三流プロの、仕事を奪うかもと語っていて、ハッとしました。プロと言っても、個性みなぎる一流プロもいれば、技術はあっても個性はない三流プロもいるわけで。これはどこの世界も同じでしょう。昔だったら、アニソンのテープとかで、他の人の持ち歌を歌っていた代役の歌手とか。

漫画家の場合、福本伸行先生や片山まさゆき先生とか、自分の絵の下手さを自虐されますが。でも、この先生方はひと目でわかる、強烈な個性を持っていますから。で、キャラクター絵とか、忙しい漫画家に変わって、モブシーンとか技術のあるチーフ・アシスタントが描くことは多いのですが。AIで漫画家が自分の絵を覚え込ませて、代筆させることは可能になるでしょうね。背景に関しては、タッチの問題や作家によっては微妙な画角に拘るので、そこの需要はあるでしょうけれど。アシスタントの仕事を、AIが奪う可能性。あるいは、予算のないラノベの編集部で、重宝されている〇〇先生っぽい絵柄のイラストレーターとか、淘汰されるでしょう。

■現代に続く写楽の問題■

もうひとつ、ヒット作が出たら、そのスピンオフ作品がよく出るのですが。作家本人でなく、別の人が書くパターンが多いですが、これなどもAIに代筆という未来も、充分にありえるでしょうね。けっきょく、スピンオフ作品でもアンソロジー作品でも、その作家の個性がないと、淘汰されちゃう気がします。そして、この部分で、アニメの動画マンや原画マンが、淘汰されていく可能性はありますね。アニメは分業制でそれこそ、キャラクターデザインにどれだけ近づけられるかがキモですから。演出を兼ねる動画マン以外は、けっこう仕事を奪われそうな。でも、自分はこれは漫画界もアニメ界も、プラスに捉えていますけどね。

東洲斎写楽、という浮世絵画家が江戸時代にいましたが。今でこそ高く評価されている写楽ですが、当時は評価が芳しくなかったようです。ハッキリ言えば、売れ行きが良くなかった。当代一流の文人であった大田南畝(蜀山人)も、「これは歌舞妓役者の似顔をうつせしが、あまり真を画かんとてあらぬさまにかきなさせし故、長く世に行はれず一両年に而止ム」と評しています。ただ、現在でも落語の枕に使われるような狂歌を残した才人の大田南畝が、わざわざ取り上げるほどには、一流の人間には評価されていたわけで。時代が早すぎたのでしょう。これが現代なら、評価は違ったでしょうね。

■サリエリの評価と苦悩■

ここらへんは、ミロス・フォアマン監督の大傑作『アマデウス』の、サリエリとモーツァルトの問題にも帰着します。まぁ、あくまでも映画はフィクションですが、少なくともアントニオ・サリエリは当時のトップの音楽家で、ベートーヴェンやシューベルト、リストといった歴史に残る弟子を育て、モーツァルトの息子も指導しています。でも、その楽曲はモーツァルトや弟子ほど、後世には残らなかったのも事実です。映画や舞台の大ヒットで、むしろ作品が発掘されて再評価されてはいますが。実際のサリエリはかなりの人格者で、人望もあり、宮廷楽長になるに足る人物だったのは、疑いないようです。

でも音楽家の評価は、天才モーツァルトに及ばず。才能というのは残酷で、当人の人格に関係ない。天才だから評価されるわけでもなく。推理小説の始祖エドガー・アラン・ポーは、編集長と喧嘩するので雑誌の仕事もなく、暖炉にくべる薪もなく、結核の妻ヴァージニアは、ポーの外套にくるまって猫を抱いて、寒さをしのいでいたとか。あれ程の天才も、時代に認められず、最後は野垂れ死にに近いです。それは、作曲家のフォスターも同じ。

ちなみに、福山庸治先生の『マドモアゼル・モーツァルト』も、もっと評価されてほしい作品ですけどね。評価は、時代に早すぎても遅すぎても、正当な評価を得られない悲しさ。個性はありすぎてもダメだしなさすぎてもダメだし、でも個性がないならないで使いようはあるという意味で、AI作画は面白い使い方ができるのではないかと、自分は期待していますけどね。天才たちの生の絵を見てきたので、それを奪うことは難しいと思っています。

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