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大久保利通と日本文化

◉地元鹿児島でも、西郷南洲翁の圧倒的な人気に比較して、大久保利通公の人気は低いです。100対1どころでないぐらいに。しかし、政治というモノが少しは理解できるようになると、大久保利通公のその見識の深さや広さは、同時代において群を抜いていますね。ある意味で、島津斉彬公が亡くなった後、この国のグラウンドデザインができたのは、大久保利通公のみだったでしょう。

【大久保利通が青ざめた「西郷隆盛」衝撃暴言の内容 実は理詰めで考え、納得しないと動かぬ頑固者】東洋経済オンライン

倒幕を果たして明治新政府の成立に大きく貢献した、大久保利通。新政府では中心人物として一大改革に尽力し、日本近代化の礎を築いた。
しかし、その実績とは裏腹に、大久保はすこぶる不人気な人物でもある。「他人を支配する独裁者」「冷酷なリアリスト」「融通の利かない権力者」……。こんなイメージすら持たれているようだ。薩摩藩で幼少期をともにした同志の西郷隆盛が、死後も国民から英雄として慕われ続けたのとは対照的である。
大久保利通は、はたしてどんな人物だったのか。その実像を探る連載(毎週日曜日に配信予定)第6回は、島流しから戻ってきた西郷に翻弄される大久保のエピソードをお届けする。

ヘッダーの写真はWikipediaより、岩倉使節団で欧米を回ったとき、ハーフかと問われたほど鼻が高く彫りが深かった大久保利通公。身長も178cmとも183cmとも言われる長身。鹿児島に多い、ポリネシア系の血が濃かったのでしょうね。

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■鉄血宰相ビスマルクの弟子■

大久保利通公は不平等条約改正と見聞を広げるための岩倉使節団で、ドイツ帝国のオットー・フォン・ビスマルクに面会します。それまで建前しか言わない外国要人とは異なり、鉄血宰相と評された現実主義者のビスマルクは、国際社会に踏み出したばかりの東洋の小国に、本音の国際政治を語ります。ドイツもまた昔は幕藩体制の日本と似ていて、諸侯の連合のような国家。フランス革命で国民国家になったフランス軍に攻め込まれ、ようやく国民国家意識に目覚めます。以下に引用しますね。

「現在世界各国は親睦礼儀をもって交流しているが、それは表面上のことである。内面では弱肉強食が実情である。私が幼い頃プロイセンがいかに貧弱だったかは貴方達も知っているだろう。当時味わった小国の悲哀と怒りを忘れることができない。万国公法は列国の権利を保存する不変の法というが、大国にとっては利があれば公法を守るだろうが、不利とみれば公法に代わって武力を用いるだろう」
「我々は数十年かけてようやく列強と対等外交ができる地位を得た。貴方がたも万国公法を気にするより、富国強兵を行い、独立を全うすることを考えるべきだ。さもなければ植民地化の波に飲み込まれるだろう」

生々しいですねぇ〜。でもアメリカはもちろん、英仏など現代の政治もまた、コレな訳です。日本人は本音と建前の裏表があると批判されますが、それは欧米も同じこと。ただ、その建前に一定のプロトコルがあるだけで。このビスマルクの薫陶に、大久保利通公は得ること多く。日本の官僚制度を整え、国家百年の計を構築されたわけで。切れ者は切れ者の言葉を理解した、ということでしょう。Wikipediaに引用された部分だけでも、ビスマルクの現実主義がわかります。

■平家・海軍・国際派■

この国は、平家・海軍・国際派は出世できないと言われますが。逆に言えば、源氏・陸軍・国内派が幅を利かす国。でもこれは当然で、白村江の戦いで唐と新羅の連合軍に大敗した結果。この国はこの島国を天下とみなし、ある種のモンロー主義というか、内向きの引きこもり、鎖国が国是になったので。日本国号・天皇号・元号は全部、対中華王朝へのコンプレックスから生まれています。海の向こうの大国やその周辺に詳しい人間は、ウザイのです。

経済に強く算盤に強いタイプの人間を、日本人は嫌います。国際政治が解っていて視野の広い人間を、嫌います。村社会の論理を優先して、ズルズルと決断できないタイプが、好まれます。そのくせ、現実対処的な政治家を嫌い、原理原則を唱える人間を好みます。頭が良すぎる切れ者を、嫌います。その意味では、大久保利通公は、平家・海軍・国際派の嫌な人間のイメージに、ピッタリの人物です。西郷南洲翁の応用なイメージとは真逆(実際は南洲翁もかなり癖がある人物なんですが)。

■日本の暗殺失脚列伝■

大久保利通公は非常に圧迫感があり、能力主義で縁故を軽視し、伊地知貞馨のような仲の良い者でも不正が発覚したら切る。これって、三国志の悪役・曹操に近いですよね。曹操は、昔なじみが昔ばなしをして同情をひこうとしても、涙を流しながら頑として減刑しなかったとか。大久保利通公も、南洲翁の自決の報を聞き、号泣して家の中を歩きまわり、長身ゆえ鴨居に頭をぶつけていたというエピソードが残っています。こういうタイプは、日本史でもしばしば見られます。

・蘇我馬子(聖徳太子の外交は馬子の業績とする説もある)
・聖徳太子(対隋対等外交)→暗殺説あり 子孫滅亡
・蘇我入鹿(三韓から進貢の使者が来日した儀式にかこつけ暗殺)
・平 清盛(日宋貿易)
・細川政元(日明貿易)
・足利義満(日明貿易)
・足利義教(勘合貿易を再開)
・織田信長(楽市楽座)
・石田三成(太閤検地の中心人物)
・荻原重秀(史上最高の経済官僚)
・田沼意次(重商主義政策)
・大久保利通(官僚制度の父)
・高橋是清(元祖リフレ派)
・岸 信介(リアリストの国家社会主義者)

ほとんどが暗殺か失脚、あるいはろくな死に方をしなかったと、巷間悪口を言われる政治家ですね。でも、彼らは国際的視野があり、時代より何歩も先を行っていました。故に、理解されず、嫌われ、悪評がついてまわる。賄賂政治家とか悪評もありましたが。自分が、竹中平蔵批判に安易に乗り切れないのも、こういう事例を知ってるからなんですよね。少なくとも、バブル崩壊以後のあの時代に公的資金注入を提言したのは竹中氏のみ、ですから。

日本は今一度、大久保利通公の原点に帰るべきだと思うのですが。無理でしょうね。自分もまた、目の前に大久保公が居たら、怖がって排斥した凡人の一人ゆえ。どっとはらい( ´ ▽ ` )ノ

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