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被害者文化は免罪符を求める

◉林智裕氏の、キャンセルカルチャーに関する興味深い論考が、現代ビジネスに上がっています。大義名分を掲げて、無理を通す人間への批判は、前著『正しさの商人』から、一貫していますね。自分は被害者である、という最強ポジションを得たら、それを免罪符に過剰な復讐に走る。戦後、そういう活動は至る所で観察されていたのですが。平成も後半になって、インターネットの普及・スマートフォンの浸透・SNSの発達によって、それが至る所で可視化されたように思います。

【現代社会を侵食する「被害者文化」の病理…暴走する「被害者意識」身勝手な「社会正義」とどう向き合うべきか?】現代ビジネス

「やさしさ」を免罪符に
《「社会正義運動」が──何よりも「アイデンティティ・ポリティクス」あるいは「ポリティカル・コレクトネス(政治的正しさ)」という形で──社会にもたらす影響は、いやでも目に付くようになってきた。毎日のように、性差別的、人種差別的、ホモフォビア(同性愛嫌悪)的と解釈される発言や行動で、クビにされたり「キャンセル」されたり、あるいはソーシャルメディアで炎上したりする人が出てくる。

時にはその糾弾が正当なもので、その差別主義者──みんな自分とはまったくちがうと思っている人物──が、その醜悪な思想について「当然の報い」を受けていることに安心できる。だがそうした非難が変な深読みに基づくもので、屁理屈の糾弾になっている場合がますます増えている。》

https://gendai.media/articles/-/126823

ヘッダーはネットで拾ったフォトギャラリーより、安倍晋三元総理をヒトラーになぞらえスティックで殴打する女性です。

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■ルーツは共産主義思想■

詳しくは、上記リンク先の全文を、ぜひお読みいただくとして。戦後、日本では被害者が有利なポジションと思われるようになりました。もちろん、本来はそんなことは無く。犯罪被害者や差別の被害者は、社会的に救われる存在であったはずですが。解同朝田理論が出てきて、被害者が差別だと思ったら差別だという、ムチャクチャな理論がまかり通り。朝日新聞の金漢一記者が『朝鮮高校の青春  ボクたちが暴力的だったわけ』で書いたことを信じるなら、朝鮮学校は学生の犯罪行為に対する抗議を、在日差別に結びつけて、突っぱねてきたわけで。

この、弱者が最強カードになるのは、これら左派の活動の思想的なルーツに、カール・マルクスの共産主義思想があるから、というのが大きいでしょう。何度か書いているように、共産主義思想はユダヤ・キリスト教の千年王国思想を焼き直した、疑似科学です。マルクス本人は、ダーウィンの進化論に影響を受けて生み出された、理論だと思い込んでいましたが。実際は、虐げられたユダヤの民 or キリスト教徒が、最後の審判で救われるという思想を、労働者階級に置き換えただけです。

バビロン捕囚という、ユダヤ民族消滅の危機に際して 刷新されたユダヤ教は、その強烈な団結力とのトレードとして、巨大なルサンチマン(社会に対する怨恨)も溜め込む構造を、持ってしまったわけで。これが、キリスト教や共産主義思想、ナチズムなどにも受け継がれた部分です。というか、人類という脳が暴走した生物は、普遍的にルサンチマンを抱える存在なのかもしれません。文化が違うはずの儒教にも、ルサンチマンはありますから。

■免罪符を欲しがる一般人■

例えば水道橋博士なども、芸人だからを免罪符に、発言の責任逃れをする部分を感じて、批判したことがあります。王宮の道化師は、ある意味で蔑まれる存在だからこそ、トリック・スターとして放言が許されていた面があります。それは、上方落語の初代桂春團治が被差別階級出身で、その伝説になった数々の破天荒な言動と、キャラクターが愛されていた時代の、残り香のようなもので。あるいは笑福亭鶴瓶師匠が、チンチン放り出すレベルならともかく。

岡山の資産家のボンボンである水道橋博士が、そういう過去の差別構造を利用して、免罪符を手に入れていいものなのか? 少なくとも、行政など制度としての差別はもうなくなっていて、出自的にも差別される存在ではなく。むしろ 一般人よりも高額な年収で、知名度も高く、若者の憧れの職業でしょうに。これも戦後日本が、被害者ポジションや弱者ポジションにいると、いかに有利かの、間接的な現れに思えます。

「被害者文化」は、個人の「繊細な」感情と直感が持つ価値を過度に正当化し、それらへの無条件かつ献身的な配慮と服従を他者へ求めるエゴイスティック(利己的)でナルシシスティック(自己愛的)な傾向がある。

この新刊『やさしさの免罪符』も、書店によっては扱いがなかったりと、福島への風評加害に対して都合の悪い人間が、ささやかなパージをしているようで。そんな事やってたら、日本の出版文化におけるAmazonの役割が、ますます大きくなるだけだと思います。

■近代法への挑戦■

けっきょく、これらキャンセルカルチャーは、宗教由来の過剰復讐を肯定する面があります。もともと、暴力衝動を抱えた人間と、親和性が高く。でも近代法は、過剰な復讐を制限する同害報復をベースとする、ハンムラビ法典をルーツとしています。これは、「されど我は汝らに告ぐ、すべて色情を懐きて女を見るものは、既に心のうち姦淫したるなり。」ってキリスト教的な道徳観の押し付けに対して罪刑法定主義を取り、心の問題には極力踏み込まないようにしている訳で。

つまり「被害者文化」に通底するのは、端的に言えば「お客様根性」とダブルスタンダード(二重規範)である。徹底して自分に「やさしく」、他人には厳しい。いわば「『尊厳の文化』社会」という寛容な保護者に依存しながら罵倒で返す、「世間知らずな子ども」のように振る舞う。

そしてこの10年で、潮目がずいぶん変わったように思います。暴走は暴走だと、批判されるようになった。コレが大きいのではないでしょうか。たぶん、発端は旧しばき隊界隈による、大学院生リンチ事件の発覚。あれは連合赤軍による総括リンチ殺人事件(山岳ベース事件)に匹敵する、インパクトがあったでしょう。昔だったらアレ、揉み消されていたでしょう。窮鼠猫を噛むで、運動の維持と同調圧力が、悪目立ちするようになった印象です。

キャンセルカルチャーに関しては、2021年から2022年にかけて起きた、オープンレター騒動も大きかったですね。個人的には、呉座先生が謝る必要はなかったと思いましたが、謝罪したにも関わらずそこで終わりとならず、嵩にかかって追い込みをかけてきた印象です。あのオープンレターに正当性がなかったのは、弁護士など法曹関係者で賛同したのが一人と、左派界隈でも関わったらやばい、という認識が一致していたのでしょう。


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