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三星堆遺跡で新たに黄金仮面発見

◉三星堆遺跡は、東アジアには黄河文明とは別に、独自の文明があったことを示して、驚きを以て迎えられました。1986年に中国の四川省徳陽市広漢市の三星堆で発見され、およそ5000年前から3000年前に栄えた古蜀文化の一部とされます。これは、伝説の夏王朝に比定される二里頭文化の、紀元前2000年頃~紀元前1600年頃とも時期的に重なるので、さらに意味が大きいです。

【三星堆遺跡で新たに六つの祭祀坑発見 黄金仮面など500点以上出土】AFP BBニュース

【3月22日 Xinhua News】中国国家文物局は20日、四川省(Sichuan)成都市(Chengdu)で、長江上流域文明の中心とされる同省広漢市(Guanghan)の三星堆(さんせいたい)遺跡で重要な発見があったと発表した。3千年余り前に四川省一帯で栄えた古蜀国の祭祀(さいし)坑6基が新たに見つかり、黄金仮面、青銅の人物像や酒器、玉製礼器、絹、象牙などの遺物500点以上が出土した。
 同遺跡は成都平原の北部に位置する。分布面積は約12平方キロメートルで、中心区域の三星堆古城の面積は約3・6平方キロメートル。中国西南地区で最も規模が大きく、最も長く栄え、最も豊かな文化を持つ古城であり、古国であり、古蜀文明の遺跡とされる。

中国には黄河文明(紀元前4800年頃の仰韶文化から紀元前17世紀頃の殷王朝・周王朝の青銅器文明まで)以外にも、長江文明(紀元前14000年頃から紀元前1000年頃まで)や遼河文明(紀元前6200年頃)もありますからね。そういう意味では4大文明という言葉は、もう死語になっていますけれども。三星堆遺跡は、文明的には軽視されてた四川省にも、こんな古い文明があったという驚きが。

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■三星堆遺跡の独自性■

三星堆遺跡が特異なのは、同じ青銅器文明でも、出てくる巨大な仮面や人物像が、デザイン的に特殊な点ですね。もちろん、黄河文明は1800年ほどは先行していますから、何らかの文化的な伝播自体はあったのでしょうけれど、数千年のスパンの中で、独自性が育まれたのでしょう。同時代の二里頭文化から殷商文化までと比較しても、独自です。文明的にも、とても興味深いです。

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上のGoogleマップのスクリーンショット、左端の星印が三星堆遺跡で、長江文明の代表的な遺跡である河姆渡遺跡とのちょうど中間ぐらいの位置にある星印が二里頭遺跡です。三星堆と二里頭が福岡と京都ぐらい、三星堆と河姆渡遺跡が鹿児島から東京ぐらいの陸路に近い距離でしょうか? 揚子江(長江)文明と黄河文明は、あんがい距離的に近いんですね。そりゃあ、文明の伝播は必然ではあります。

■蜀と邪馬台国■

さて、陳寿の著した『三国志』の魏志倭人伝(三国志魏書烏丸鮮卑東夷伝倭人条)ですが。女王卑彌呼を、鬼道に事え衆を惑わしたと記述していますが。岡田英弘先生の指摘で、同書の中では鬼道は他に2カ所出てくるが、両方とも五斗米道という宗教団体の別名とのこと。つまり、卑弥呼の宗教は素朴なシャーマニズムと言うより、五斗米道の末裔の可能性があるわけです。五斗米道は、以下のようにWikipedia先生は説明しています。

五斗米道(ごとべいどう)は、通説では後漢末に太平道に少し遅れて、張陵(張道陵とも)が、蜀郡の成都近郊の鶴鳴山(あるいは鵠鳴山とも、現在の四川省成都市大邑県)で『老子道徳経』を基本にして起こした道教教団。2代目の張衡の死後、蜀郡では巴郡の巫である張脩の鬼道教団が活発化した、益州牧の劉焉の命で、3代目の張魯とともに漢中太守蘇固を攻め滅ぼしたが、後に張魯が張脩を殺害してそれを乗っ取り、漢中で勢力を固めた。

もろ、三国志の時代に生まれた宗教団体。そして、黄巾の乱で後漢王朝は、人口が3分の1とも10分の1ともいわれる大激減を起こし、流民化する人間も多かったようで。五斗米道は曹操によって北方への強制移住政策などを喰らい、壊滅的な打撃を受けたわけですが。これが各地に分散して、日本に到達しても不思議はないですね。日本の神道の神様も、実は道教の神様がルーツという指摘もありますし。

■太伯の末裔が倭人■

南宋末期の儒学者の金履祥が著した歴史書『通鑑前編』に、倭国の使者は使者が呉の太伯(紀元前11世紀)の後裔だと云っているとの記述があります。呉は西暦473年に滅亡し、子孫が海を渡り倭国を造ったと、当時の中国人は認識しています。魏略・晋書東夷伝・梁書東夷伝などにも「自謂太伯之後」と記されているので、九州と江南地方の交易は、盛んだったのでしょう。この太伯(泰伯とも)は、Wikipedia先生によればこんな人物。

太伯(たいはく)・虞仲(ぐちゅう)は、中国周王朝の古公亶父の子で兄弟。后稷を始祖とすることから、姓は周宗家と同じ姫(き)。紀元前12世紀・紀元前11世紀頃の人物。二人とも季歴の兄、文王の伯父に当たる。
太伯は長男で、呉(句呉)の祖とされる人物。泰伯とも。
虞仲は次男。仲雍、呉仲とも。

こういうのは、自分を大きく見せる加上説のひとつでしょうけれど、いずれにしろ日本への稲作伝播が現在の浙江省地域の農耕漁撈民によって6000年前に伝わった可能性を鑑みるに、揚子江下流域と日本列島との交流は、三星堆遺跡の1000年以上前から始まって五斗米道や呉が滅びて以降まで、長期的に続いたのでしょう。半島経由の文化伝播を強調する言説に、自分が与しない理由です。

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