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忘却のメモリ

 覚えておけることは、とても少ない。

 僕は旧式で容量が少ないから。

 いま、こうして玄関のドアに、もたれかかっているあいだにも、記憶が崩れていっているのがわかる。どんどん、上書きされていってしまう。過去は埋もれて、メモリから削除される。そういうふうにわざと作られているんだと、聞いたことがある。その方が、人間らしいだろう、とも。

 「今、ここにいる」理由も、いずれ忘れてしまうのかもしれない。

 こんなの、欠陥だらけで、とてもよくないのだけれど、僕は僕を直せないから、どうすることもできない。

 それに、両足もどこかに行ってしまった。

 524日前に、全長2メートル12センチの、僕の知識にはない、四足歩行の生命体がやって来て、両足をもいで持って行ってしまった。僕は生き物に危害を与えられないようにプログラムされているから、抵抗もできずに、されるがままだった。はじめのうちはGPSが機能していたけど、北へ38キロ5メートル進んだところで途絶えてしまった。電波が届かない建物に置き去りにされたのか、それとも破壊されたのか、おおよそそのどちらかだと思う。

 両腕はまだあるけれど、右手は近頃調子が悪い。

 僕には五本の指があって、そのうちの親指、人差し指、中指、の機能が停止している。

 メンテナンス信号は、8,836日前の定期検診予定日から毎日、午前10時と、午後3時の2回に送り続けているけれど、返事はまだこない。とても忙しいのか、センターでなにかトラブルが起きているのかもしれない。

 他にも不具合はたくさんある。関節の隙間には埃や砂が入り込んで、動きが鈍くなっている。それに最近は視界も悪い。ずっと霧がかかったように見える。遠くのものはまるで見えない。それに温度計も壊れているみたいだ。ずっと六十度から、ひどいときだと八十度だと表示されている。これだと、ほとんどの生命体は生きていけない。ひどいバグだ。

マイク機能はもっと重症だと思われる。今の時間ならば、通勤や通学の人々の声がしてもいいはずなのに、僕のマイクはなにも拾ってくれない。しんと静まり返っている。そして、時折ノイズがはしる。

 「波の音みたいね」

 僕のご主人はそう言った。

 いま、メモリに残っているご主人の、いちばん古い記録。黒いスカートに藍色のセーターを着ている。場所は研究所。時刻は25時4分。

 「最終電車が、発車しました」

 あのとき、ターミナルからの連絡を告げた僕の音声には、少しノイズが混ざっていた。次の日の朝いちばんに修理してもらう予定だった。

 「この、ノイズ音がですか?」

 僕は体内にある独自ネットで、波の音を検索し、ご主人に聞こえるように流した。人間の耳を模した僕のスピーカーから波の音が流れだす。ご主人はゆっくりと目を閉じ、目の前にある顕微鏡から顔を離して僕の方に身体を向けた。

 「うーん。ちょっと違うか」

 そう言って、にっこりと笑った。目じりにしわが濃く刻まれる。似た音を流したつもりだったけれど、少し違ったらしい。返事をする代わりに、音を閉じた。

 「切らないで、もう少だけ流してくれるかしら?」

 「わかりました」

 僕は引き続き波の音を流した。ご主人はイスの背もたれに身体を預け、首をほぐすように回したあと、長いため息をついた。

 「今日も帰れそうにないわね」

 ご主人は周りを見渡しながらそう言った。研究室でいつも顔を見る面々が各々の業務を行っている。僕は会話の邪魔にならない程度に、波の音量を調節した。研究員の顔はみんな疲弊しているように見えた。

 「みなさん疲れが目立っているようです。もちろんご主人も」

 「そうかしら?あなたの作るごはんで栄養は取れているんでしょ?」

 「いいえ。食事で睡眠は補えません」

 首を振ると、ご主人息を吐き出すようにして、弱く笑った。

 「確かにそうね。でも、このラボもいつまで使えるか分からないから、みんな必死なのよ」

 視線を伏せるご主人の目元に影が宿る。僕はこういう場合、どう声をかけるのが正解なのだろうかと、検索をしていた。その数秒の間に、ご主人はまた口を開いた。

 「いつか、海の近くに住みたいわね」

 海の近くに住んで、どんな利点があるのか、僕には思いつかなかった。風が強く、物が錆びやすいらしい。そんな場所にわざわざ居住を置く必要性がみいだせない。

 「そうですね」

 僕はそう言った。余計なことを言って、ご主人の気を損ねたことが、何度かあったから、同意することにした。完璧な笑顔を作ってみせたつもりだったけど、ご主人は眉をひそめた。

 「思ってないくせに。まぁ、嘘をつけるほどには知能が成長したってことか・・・」

 呟くようにそう言いながら、ご主人はまた机のモニターと顕微鏡に視線を移した。

 そんな会話をした965日後、ご主人と僕は、ご主人の希望通り海辺の家へと引っ越しをした。

 「こんなかたちで海の近くに住むことになるとはね」

 ご主人はそう言った。窓から外を眺めているようだった。新築のこの家のリビングはどこからでも海が見える。僕はご主人の荷ほどきをしていた。

 「今はまだ人の少ない島国だけど、いずれ人がたくさん来てにぎやかになるわよ」

 そう付け足し、ご主人はにっこりと微笑んだ。

 さっき地図をインストールさせてもらった。確かにここは土地が狭く、建物も少ない。何度か確認したけれど、研究室らしきものも一つも見当たらなかった。僕の知る限り、ご主人の居住地から十キロ園内に研究施設がないことは初めてだった。

 「もう研究はしなくてよいのですか?」

 ご主事の瞳孔が少し開いたのが分かった。余計なことを言ってしまったのかもしれないと、過去のデータファイルを確認した。でも人間の心は、過去の分析だけでは、理解しきれないことが多々ある。ご主人は顔をあげて、紫色の瞳を細めた。瞳に水分膜が張っていた。

 瞬きをして、それが零れ落ちる。

 「ええ。もう全部おわりよ。この島が最後の砦なの。誰にも汚されていないから。でも、もうアレを止めることはできないわ。ここはまるで箱舟ね、決して動かないし、行く宛もないけれど」

 ご主人は零れ落ちた少しの涙を、手の甲で拭って、声を出して笑った。いつもより声量が少なかった。

 「箱舟よりも、檻と言った方が正しいかもしれないわね。もうこの地でしか暮らしていけないんですもの」

 鼻水をすすりながら、ご主人はそう付け足した。呼吸が少し乱れている。

 「申し訳ございません。失礼な質問をしてしまいました」

 謝罪をすると、ご主人は僕の頭をゆっくりと撫でた。

 「いいのよ。あなたが聞いてくれなかったら私、泣くこともできなかったと思うの。研究所を取り上げられた私をみんな腫れもののように扱ってくるんですもの。気を使わせないように、知らないあいだに自分の感情を殺していたみたい。涙をみて自分の感情を確認するなんて、私もまだまだだわ」

 ご主人はまた窓の方を眺めた。海に太陽が飲み込まれてゆく、時刻は18時28分だった。

 「私はね産まれた時から奪われてばかりだったの。生活できる土地はどんどん少なくなってゆくし、まだ食料も電力も娯楽も満足になかった。父は調査と称して危険な地に行ってそのまま戻ってこなかったし、母も買い物に行くと言ったきり帰ってこなかった。お金もなかったし、一時期住む場所もなかったわ。ひとりぼっちだったの。だから全力で努力をした。努力にしかすがるものがなかった。ずっとずっと走ってきたわ。だからただの研究員の私が、今生き残れているのかもしれないわね。今まで頑張ってきた結果が、人より長い寿命と、この島国。それで充分よね。「天国はここにある」って思って生きなきゃ、今までの私が報われないわ。ずっと頑張ってきたんですもの」

 自分に言い聞かせるように、ご主人はそう言って、いつもと同じ声量で笑った。

 「お疲れ様です」

 僕はそう言って頭を下げた。

 「あなたもね。長い間、ずっと助手をしてくれてありがとう。これからは家事専用になっちゃうけど、よろしくね」

 「はい。お任せください」

 それから少し経って、ご主人の居住区に避難命令が出た。予定よりずいぶんと早い勧告だった。

 「あなたは少し修理が必要だわ」

 ゆっくりと荷造りをしていると、ご主人は少し上ずった声でそう言った。思い立ったらすぐに行動におこさないと、気がすまない人だから、僕はすぐにベッドに寝転がされた。

 「定期検診ではなんの問題も見つかりませんでしたよ」

 僕の胸のハッチを開けて、中を点検しているご主人の耳に、この声は届いていないようだった。

 「僕は大丈夫ですよ。どこにも異常はないはずです」

 繰り返し言うと、ご主人は顔をしかめ「命令、静かに」と言った。ご主人の言葉の先頭に命令がつけられたら、僕はこれに絶対従わなくてはならない。

 頭を開かれようが、背中の中をのぞかれようが、目を取り換えられようが僕は黙っていた。

 「おわった」

 ご主人がそう呟いたのは、25時間56分が経ってからだった。ご主人の額には汗がにじんでいた。

 「私が改造したから、この先永遠に故障なんてありえないわ。最新型にも引けはとらないはずよ」

 最後の方はあくびを噛みしめているようだった。目の下にうっすらと隈が浮き出ている。

 「なによ、改造したの怒ってるの?」

 命令されて何も言えないでいる僕をご主人は鋭く睨み付ける。ジェスチャーで自分の口をゆびさすと、ご主人は「あっ」と小さく声を出した。

 「命令解除。すっかり忘れていたわ。ごめんなさい」

 「修理ではなく、改造だったんですね」

 声を遮るように言うと、ご主人はわざとらしく視線をそらした。

 「いいじゃない、そんな細かいこと。そんなことより、立ち上がれる?」

 僕はベッドから降り、立って見せた。ご主人は「完璧ね」と言って満足そうに笑うと、僕の手を取り玄関へと移動した。

 「そこに座って」

 言われるがままに、僕は玄関のドアの前に座った。ご主人はしゃがんで僕と同じ目線になった。

 「私もう疲れちゃった」

 「昨日から眠っていないんですよね?早くお休みになった方がいいと思います」

 「そうするわ。来週はまた引っ越しがあるし」

 ご主人は目頭を押さえて、深いため息をついた。今住んでいる場所の避難勧告のせいで、来週には島の中心部に移動しなくてはいけない。

 「それでね、申し訳ないんだけど。留守を頼みたいの」

 「はい。かしこまりました」

 「あともう一つお願い。あなたが他の誰かと出会えるように、部屋に篭らないでこの場所に居てほしいの。それとね、新しくプログラムをインストールするから、再起動をかけるわね。しばらくのあいだ、眠っていてね。少し時間がかかるから、私とはここでお別れよ」

 「わかりました」

 僕が返事をするたびに、ご主人の紫陽花色の瞳から涙があふれた。

 「ごめんね、ごめんね」

 濡れた紫陽花のような瞳を向けながら、僕の頬にご主人の手が添えられる。柔らかく、熱っぽい感覚があった。

 「さようなら」

 その言葉を最後に、僕の中の意識は途絶えた。

 次に目を覚ましたのは、3,658日後だった。

 関節に埃や砂が入り込んでいて、体が動かしずらかった。ご主人の姿はどこにもない。頬に手の感触がまだ残っているような感じがした。きっと幻覚なのだと思う。と、考えて、僕は少し驚いた。幻覚を感じるだなんて、非科学的だ。まるで人間じゃないか。そしてそう驚いていることにも驚いていた。とても冷静な状態じゃなかった。

 独自ネットにメールが届いていた。ご主人からだった。時間を見ると、僕に再起動をかけた直後のものだと分かった。

 ―新しいプログラム気に入ってくれたかしら?ロボットにね、心を与えることは罪とされているでしょ?でもね、あなたと一緒に居て生活をして言葉を交わして、思ったの。他にもロボットは沢山居るけれど、あなたほど私のことを好きなロボットは居ないし、私ほどあなたのことを愛してる人間は居ないわ。お互いに好きあっているのに、そこに心がないなんておかしいもの。プログラムが正常にインストールされているのなら、あなたは私のこと恨むかしら。一人にさせてごめんね。あ、それとね。もし対話のできる生物が現れたら、今まで起こったことをきちんと伝えてあげて。人類の歴史を

 メールはそこで途切れていた。

 視界がにじんだ。レンズにゴミが入ったようだ。手をあてがった時、水分を感知した。これは、まるで涙だ。ご主人は僕にこんな機能も付けたのか。

 感情なんて不安定なもの、今更どうしてくれたのだろう。

 ご主人が居ないのならば、こんなものは要らないのに。途方もない、この孤独を、どうやって生きればいいのだろう。生きることに、価値を見出そうとするなんて、まるで人間みたいだ。

 ノイズが聞こえる。これは海の音だろうか、僕の発する不具合なのか、それすらももう分からない。記憶がどんどん消えてゆくのが分かる。

 「私ね、あなたのこと好きよ。それも特別な好きなの。でも、ロボットをそういう風に思ったらいけないんですって、だからこれは、誰にも言ったらだめよ。「誰も知らない二人だけの秘密」にしていてね」

 ノイズと過去の記憶が、混ざってゆく。僕はそう言ったご主人になんて答えたのだろう。過去のログを漁っても、データは出てこなかった。ずいぶんと古いものみたいだ。どうして思い出すことができたのだろう。

 あぁ、そうだ。

 僕にはもう、心が、あるのだ。

 あのとき、僕は、うれしくて、うれしくて、仕方がなかったんだね。

 僕の、部品の、ひとつひとつが、ずっと、覚えているほどに。

 僕は、時々考えてしまう。

 「この先永遠に故障はありえない」

 ご主人が、そう、言ったから。

 外気の温度計にも問題はなくて、僕の視界も本当は良好で、マイクも異常なしで、壊れているのが、僕ではなくて。世界の方なんじゃないかと。

 そんな、こと、を、考えては、レンズのあたりに、水分を感知する。

 研究していた内容も、今では、ちぐはぐに、しか、思い出せない。

 まいにち、まいにち、いろいろなことを忘れてゆく。

 でも、僕は、ご主人のことを、思い続けている。

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