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言葉の"共通意味"とは?

人間は、言語、言葉というものを発明し今日まで発展させてきた。多数の意味を持つ言葉、同じ意味を持つ別の言葉などもある。子供から大人になるにつれて、使えるようになったことばもある。そんななかで、わたしがよく考えるようになったのは言葉の共通意味、である。

一見同じ言葉を使っていても、果たしてそれは同じ意味を持っているだろうか?たとえば、「りんご」という言葉。禁断の果実であることを知っているかどうかで、その文脈のなかの意味は大きく異なるだろう。「理解」という言葉も、「理解できるなど幻想だ」と思っている人と「きちんと向き合えばどんな人でも理解することができる」と思っている人では、内包する意味は異なっているように思う。

わたしは、人と対話するということに興味があり、またすきなことなのだと思う。そのとき、相手との言葉の意味について考えるようになった。相手がいう「自分」という言葉は、わたしが捉えている「自分」の意味と同じか?ずれているなら、なにがずれているのか?そこを突き詰めて考えていくと、自分自身にも「わたしはこの言葉をどんな意味で捉えているのか?相手との共通意味とは?」という問いが生まれた。

"共通の意味"で対話ができるということは、非常に難しいことなのではないかと思う。生きてきた環境や文化が違えば、言葉の捉え方や解釈も違う。それは同じ言葉を使っていても同じ意味だとは限らない、ということにつながる。お互いに、ニュートラルな言葉の意味を探る努力がなければ、わたしは本来の意味で「言葉」としては成立しないのではないかと思うのだ。
言葉は便利なものであるが、同時に脆いものでもある。人の心を救うこともあれば、ナイフよりも容易く傷つけてしまうこともある。自分は相手に「優しさ」としてかけたつもりの言葉が、相手にとっては心を抉るようなものである可能性だって秘めている。だからこそ、相手のことを理解したい、適切に対話をしたいと思うなら、その相手と自分の間の言葉の意味のギャップを減らすという過程が不可欠なものだと思う。

また、言葉は十分足りうるものではないというのは、多くの人が感じることだろう。「苦手」という言葉を使っていても実際の意味は「嫌い」、「憧れ」という言葉に隠れた「劣等感」。そういうことはいくらでもあると思う。そういう意味で、言葉には光の部分、影の部分というものがあるとわたしは考えている。
今書いているこのnoteだって、全員に同じ意味で伝わるとは思わない。伝えようとする努力は必要だと感じるけれど。

わたしの言葉の意味と、あなたの言葉の意味。そのギャップや少しの違いに、ひととしての違いが見え隠れするような気がしている。だから、これからも人と対話するときは、その背景や意味を考えながら話をしていきたい。共通の意味、それを通じて見えてくる相手と自分との違い、そうして自分というものも見えてくるようになればおもしろいなと感じている。


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