無視の合理性

・3100字弱


・私は、会話においては無視がデフォルト(:標準の選択肢。特に理由がない限りそれになるという選択肢)だと思っている。会話というのは基本的には無視が下地にあって、でも理由があるから無視をせずに返事をするというものだと認識している。

 というと私が無視ばかりする無視人間だと思われるかもしれないけど、実際、私はほとんど無視はせず、皆と同程度にはちゃんと返事をする。

 ではなぜ無視をデフォルトだと思っているのか?

 それは、そう考えることで、心が穏やかになるからだ。

 無視をデフォルトだと考えるメリットを3つ挙げよう。

 前提として、これは家庭や職場などの「会話する義務がある場」の話でなくて、あくまで友人とか初対面の人などの「会話する権利がある場」の話においての話だ。



メリット①:他者の発言からストレスを受けない

 よく「こんなセクハラDMが来ました! 界隈の人は注意してください!」「無料で絵を描けってDMが来ました! 絵師は注意してください!」という晒しツイートがバズっているけど、バズる理由は、人間のデフォルトが無視ではないからだと思う。

 話しかけられたからには、それを受け取り、返事を返す義務がある……人はそう思っているから、失礼な言葉を送られたらストレスを受ける。

 仏教の雑阿含経ではこのように説かれているという。

あるところに、お釈迦様が多くの人たちから尊敬される姿を見て、ひがんでいる男がいました。

「どうして、あんな男がみんなの尊敬を集めるのだ。いまいましい」

そこで、男は散歩のルートで待ち伏せして、群集の中で口汚くお釈迦様をののしってやることにしました。

「お釈迦の野郎、きっと、おれに悪口を言われたら、汚い言葉で言い返してくるだろう。その様子を人々が見たら、あいつの人気なんて、アッという間に崩れるに違いない」

そして、その日が来ました。

男は、お釈迦様の前に立ちはだかって、ひどい言葉を投げかけます。

お釈迦様は、ただ黙って、その男の言葉を聞いておられました。

弟子たちはくやしい気持ちで、「あんなひどいことを言わせておいていいのですか?」とお釈迦様にたずねました。

それでも、お釈迦様は一言も言い返すことなく、黙ってその男の悪態を聞いていました。

男は、一方的にお釈迦様の悪口を言い続けて疲れたのか、しばらく後、その場にへたりこんでしまいました。

どんな悪口を言っても、お釈迦様は一言も言い返さないので、なんだか虚しくなってしまったのです。

その様子を見て、お釈迦様は、静かにその男にたずねました。

「もし他人に贈り物をしようとして、その相手が受け取らなかった時、その贈り物は一体誰のものだろうか」

こう聞かれた男は、突っぱねるように言いました。

「そりゃ、言うまでもない。相手が受け取らなかったら贈ろうとした者のものだろう。わかりきったことを聞くな」

男はそう答えてからすぐに、「あっ」と気づきました。

お釈迦様は静かにこう続けられました。

「そうだよ。今、あなたは私のことをひどくののしった。でも、私はそのののしりを少しも受け取らなかった。だから、あなたが言ったことはすべて、あなたが受け取ることになるんだよ」

引用元:https://hasunoha.jp/pickups/67

(雑阿含経の現代語訳は色々なサイトに載っているけど、サイトによって内容に多少の揺らぎがある点にご注意)

 ちょっとスカッとジャパンみがある話だけど、私はこの考え方を採用している。失礼な言葉は、返事をしてしまった時点で受け取ったことになる。

 私は失礼な発言に対して返事をすることもある。でもその間、著しいストレスを受けることはない。多くの人は失礼な発言に対して「義務で返事をしている」と認識しているから、発言を直視することになって不快に思うことだろうけど、私は「基本的には無視だけど、その選択をしなかった。つまり義務ではない返事をしているのだ」という認識で返事をすることになり、失礼な発言と正面から向き合っていないので、ストレスがない。

 私は釈迦のことを何もしらないけど、釈迦のような「品性がカンストしている架空の人」を思い浮かべ、その人ならどう振舞うだろうかと考えながら自分の口を動かしている。


メリット②:質問や頼み事をしやすくなる

 私は好奇心旺盛なので他者にたくさん質問をする。が、私の質問によって相手がめっちゃ不機嫌になったこともある。あるときは「なぜ私がその質問に答える必要がある? その質問に答えることに何のメリットが?」という怒られ方をした。もちろん、答える必要はないし、答えるメリットもない。

 私に「訊かれて嫌な質問」は存在しない。「銀行口座の暗証番号は何?」と訊かれても、「年収いくら?」と訊かれてもだ。「ないしょ」と答えて、それでおしまい。

 質問とは基本的に相手の脳内に侵入する行為であり、相手の時間を奪って自分の利益を追求する行為なので、デフォルトの選択肢は「答えない」だと思う。

 ところが、多くの人間は私と違って「答える」がデフォルトにあり、「質問に答えないということは悪意と捉えられる」と認識しているし、「答えないのは罪だ」とさえ認識している。だから答えたくない質問をされたら自己矛盾を起こしてストレスを受けるし、そのようなストレスフルな質問をした方に罪があると(一般的には)認識される。

 多くの人は「全ての質問は相手への加害になる可能性を孕んでいる」という前提を念頭に置きながら会話をしている。だから「これは答えたくなかったら答えなくていいのだけど」のような(私からすると自明な)エクスキューズをする。それこそが質問しづらい社会を作っている。もっと「教えて~」「やだ~」が気軽に通る方が質問しやすい世界になると思うのだけど。


 そして、質問だけでなく頼み事にも同様のことが言える。

 私には「されて嫌な頼み事」というのは存在しない。「無料で絵を描いて~」と言われても、「10万円ちょうだ~い」と言われてもだ。「やだ」と答えて、それでおわり。

 もっと皆、気軽に私に頼み事をして欲しい(気軽に断るけど)。おれは友人知人からの頼まれごとをこなしたいぞ。



メリット③:相手の全ての返事に感謝できる

 稀に「私は長文でメッセージを送ったのに、貴方の返事は短文だった。 それは失礼なことであり、私は傷ついたし、罪だ」という怒り方をする人がいる。口にしないまでも、長文のメッセージに短文で返事をされたら、多くの人はそう思うのではないだろうか?

 そう思う理由は「手間には手間で返す義務がある」というルールが暗黙的にあるからではないだろうか。

 私は冒頭で「会話においては無視がデフォルトだと思っている」といったけど、これは当然、私以外に対してもそう思っている。私が誰かに話しかけたとき、「無視される」というのがデフォルトの状態だと思っているので、無視されて傷つくことはない。返事が返ってくるというのは、それだけで絶対的にはありがたいことなのだ。

 でも、世の人は「長文で返事すべき所を、短文で返事されて、嫌な気持ちになった」という、相対評価でありがたさを決めている。これは損なことだと思う。

 私はいつだって絶対評価で、全ての返事に対して、それ相応の感謝をしているよ。



 再度になるけど、私はこんなことを言っているけど、実際、私はほとんど無視はせず、皆と同程度にはちゃんと返事をしている。ただ「無視はデフォルトだ」と認識を変えるだけで、振る舞いを変えることなく、心を穏やかにすることができると思うよ。


・おわり

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