私と同じくらい育ちの悪い友人が二人いるのだけど、二人とも濃い「悪」の例を人生でたくさん見てきているからか、善を深く理解している。やはり悪への理解度が高い人間ほど善への理解度も高いのだろうと個人的に確信している。
例え話だけど、皆で立体迷路の中にいるとして、実際に行き止まりを目にした人は「こっちは行き止まりなのだな」と体で理解することができるが、他人から「こっちは行き止まりだよ」という情報を言語で与えられただけの人は、そっちが行き止まりであることを言語で理解しているだけで、体では理解していないと思う。
それと同じで、実際に人生で失敗体験を多くしたり、嫌な人間関係の例をたくさん体験した人間は、悪とは何なのかを身をもって知っているだろうけど、言語で「そっちは失敗だからやらない方がいいよ」「これは悪い行いだよ」と教えられて失敗例を滅多に体験してこなかった人間たちというのは、「これって悪いことじゃない?」と言語で擦り合わせて、統計的に善悪を判断することしかできない。善悪の判断基準が自分の内部にない。
ポリコレ配慮、LGBT理解増進法、謎校則、マナー講師による新作マナー。そういった議論を見ていると「5匹の猿の実験」と同じだなーと思うことがよくある。そもそも善悪とは何なのかについて考えることなく、口伝や慣習や感情論を頼りに善悪を議論している。巨大迷路で、「あっちは行き止まりらしいぞ」「こっちも行き止まりらしいぞ」と、行き止まりを見たことのない者同士が議論している。
仮に私に子がいるなら、「そっちに行っても失敗体験があるだけだから行かない方がいい」などと言語で理解させるのでなく、実際に失敗体験を得るまで歩かせるといいと思っている。 勿論、それが「車道を歩くと車に轢かれる」くらい取り返しのつかない失敗体験なのであれば言語で覚えさせるしかないので、場合によりすぎるが。
大人が子供を叱る時に、何が悪いのかという理由を述べないor述べたとしてもそれがとても理解しがたいものだった場合、子は本質的な善悪がわからず、文化によって意味づけられた表層的で口伝的な善悪だけを信じ、出る杭になることをひたすら避けるだけの人間に育っていってしまうと思う。
私はそういう表層的な善悪の基準には嫌気がさしている。