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挨拶という行為の是非について


・1700字弱


・私は幼少期、挨拶という行為のメリットが理解できず、周囲の大人に質問しまくっていたのだけど、彼らも挨拶のメリットを言語化する能力を持ち合わせていなかったので困っていた。

・今の私は、挨拶のメリットとしては2点あると思っている。

・1つが「これから君と会話を始めますよ」の意を伝えることができる点。もう1つは、小鳥のする ”地鳴き” と同じで、特に情報量のない会話を交わすことによって、コミュニケーションをとることに前向きな姿勢を見せ、互いの敵意のなさを再確認することだ。



・これは場合によると思う。

・一例だけど、机に向かって何らかの業務をこなしている最中に横から「お疲れ様でーす」と言われ、そこで返事をしなければいけないという割り込み処理が発生すると、一旦自分のワーキングメモリーに「挨拶を返す」というプログラムを読み込むという処理を挟む必要があり、それは脳に負荷がかかるから嫌だというならそれはとてもわかる。

・話は逸れるようだけど、私は「ドッキリ」というのは身内でやらない方がいいと思っている。そのドッキリ自体のストレスは大したことがない一過性のストレスだろうけど、その後の日常生活において「自分はこの後ドッキリに遭うのでは」という微弱な警戒心がノイズとして脳の一部に居座り続けるだろうから、やめた方がいいと思う。

・職場における挨拶もそれで、いつ発生するかわからない割り込み処理に備えて「挨拶に返事する」というプログラムを脳内の片隅に置き続ける必要があるから作業に集中できなくて嫌だというのは私も思っている。私が今書いているこの文章に共感できない人間の方が、世の中では多数派なのだろうか?

・とにかく、場合によっては挨拶にはデメリットもあるのであって、挨拶をしない人間を頭ごなしに否定してよいものではないと思っている。



・挨拶をしない人類の方が優れている可能性の話

・これはとある精神科医をインタビューして自閉症について書かれた記事なのだけど、全文引用したいくらい本質の文章だ。

自閉症スペクトラムの人は相対的に人口が少なく、つまりはマイノリティであるため、自分と似た人に出会える確率が低いんですね。すると、自閉症スペクトラムに特有の何らかの認知の特性を持って生まれてきた人にとっては、身の周りにいる人が、自分と同じような仕方で世界を見ていないということが常態化する。だから、ちょっとしたコミュニケーションにおいても齟齬が生じ、通じ合えなくなってしまう。

自閉症の子どもたちを見ていると、ものすごいマニアックな話を挨拶も一切せずに始めたりするんです。はたから見るとびっくりしてしまうんだけど、それで十分に彼らのコミュニケーションは成立しているんです。

 かな~り身に覚えがある。

 私も、自閉的な趣味を共有するクラスメイトと会話するときは、挨拶もなしに急にコアな話を始めたりしていた。

 挨拶なしに急にコアな話を始める人間というのは社会ではコミュ障扱いされるのかもしれないけど、それはそれで人間として優れていることだと思うんだよね。

 挨拶をしない人間は、非倫理的な人間かのような扱いをされて迫害される傾向があるけど、もし立場が逆だったら、つまり自閉的な人間の方が多数派で、定型発達症候群患者の方が少数派だったとしたら、後者の方が迫害を受けていたかもしれないのだ。「挨拶をしなければコミュニケーションができない不便な奴」と。


 これは私が今でも困っていることなんだけど、非自閉的な人間と会話したあとは、別れ際の挨拶がやたら長い。

 最短でも「はーい、じゃまた今度ね、ありがとね、今度あの人にソレ言っとくからね。うん、今日は本当にありがとね。帰り気ーつけてね。ほら、最近アレだからさ。うん、じゃね、また今度ー。はーい。ありがとねー」くらいの長さはある。

 だからといってああしろこうしろなどと言ったら私も彼ら(自分の思う合理を他人に押し付ける方々)と同じになってしまうので言わないようにするけど、呼吸が合わないなと思うことはままある。


・急におわり

 

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