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適度に他人に興味を持たず生きる

・1400字強

・おいnoteにありがちなタイトルしてんな。


・ASDの友人と雑談をしていると、気が楽だな~と思う。世の中には良いASDと悪いASDがいるけど(←そんなことを言っちゃあいけないんだぞ)、その友人は良いASDだ。

・多くの人(←私も含まれる)は、とにかく他人をホワイトボックスにしたがる。「君はなぜその行動をとるのか」「君はどういうパターンで行動をとるか」「君はアレに対してどう思うか」「君が過去にその行動を取った例を教えて」「君はこれから何をするか」など、とにかく他人の内面を透明にし、理解しようとする方々だ。そういう方々のことを便宜上、以後「非ASD」と呼ぶ。

 少なからず、もぐぐうままが自分の内面の動きについて垂れ流しているだけのこの日記を普段から好き好んで読んでいるような貴方は、大なり小なり「そのケ」があることだと思う。

 ここで言う「内面」とは、取捨選択判断のパターンや感情変化のパターンのような、思考原理全般のことだと思って欲しい。

「他人の内面を知りたい」という欲を持てるのは、生物として優れている特性だとも思う。

 しかし私は、その逆の「他人の内面に興味を持たない人」や「他人の内面を推測しない人」と接している時にしかない居心地の良さや意志疎通の円滑さというのは確かにあると思っているので、そちらもそちらで優れていることだと思う。


・非ASDは疲れると思う。脳内で、知り合い数人分の思考回路を再現していて、相手と会話するときはその相手の気持ちになって考えるのだ。

 非ASDはしばしば、「君は以前食パンが嫌いと言ってたのに今日は食パンを食べるんだね」という構文を投げて来ることがある。そういった内面の推測が100%合ってるなら問題ないのだけど、その推測はしばしば間違っていることがある。

・非ASD同士はしばしば以下のようなコミュニケーションを取ることがある。非ASDのAさんとBさんがいたとして、Bさんがされたら嬉しいであろうアクションをAさんは推測して、好意を以てそのアクションを起こす。例えばプレゼントを贈るなど。それが推測通り嬉しかったら成功なのだけど、Bさんが別に嬉しくない場合もある。嬉しくなかった場合、Bさんはその好意を遠慮してしまっては敵意があると誤解される可能性があるので、Aさんに満足感を与えるためにも、その好意を嬉しがる素振りをする。

 もう一つ例を挙げよう。非ASDのAさんBさんがいたとして、AさんはBさんに遊びの誘いを入れるが、断られることがある。Aさんは、誘いを断られた理由を知れば、今後何らかの判断に使うかもしれないので、Bさんに理由を尋ねる。Bさんはただ休日を寝て過ごしたいから断っただけなのだけど、「寝たいからいかな~い」と言ったらAさんを傷つけうるので、適当な他の理由を考えて「他の人に遊びの予定が」などと言う。

 この様なハイコンテクストなやり取りが発生しているのを見かけるたびに、ASDよりASDしてんなぁ~と思う。ポーカーみたいなコミュニケーションしてんなぁ~と思う。

・私がASDの友人に感じている居心地の良さを少しは共感して貰えただろうか。


・私は他人の内面に興味があるし、それを推測して行動することも(努力すれば)できるのだけど、意図してASD的な振舞いをしている節がある。

 他人の内面に興味がありすぎるのもなさすぎるのも考え物だから、自分はほどよい人間でありたいね。


・おわり

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