あの日のトゲ

"あの日に刺さったトゲを抜かなきゃとりあえず未来はない"

わたしが最も愛するバンド、THE YELLOW MONKEYの『聖なる海とサンシャイン』の歌い出しである。

こんなにも完璧で理想的な美しい表現はないように思う。痒いところに手が届くとはこのことだと思っている。
"あの日"にモヤモヤしたものが心に生まれ、それを抱くのでもなく、感じるのでもない。否応なしに"刺さ"ってくるのだ。
"抜かなきゃ"という表現も、冷静さを欠いている感じが読み取れる。
"抜かなければ"でもなく、"抜かないと"でもなく、"抜かなきゃ"。
外部から何かしらの刺激があり、冷静さを欠いて瞬発的に何かを発言するとき、人はきっと口語になりやすい。
"とりあえず未来はない"という言葉に、絶望や焦燥、祈りなどが伺える。

誰しもが、心にトゲが刺さりながら生きているに違いないとわたしは思っている。
悲しいこと、腹が立ったこと、苦しかったこと。
"悪いこと"というより、"良くないこと"が。
経年によってトゲが小さくなることはあっても、腐敗することはなく、雨の日に古傷が痛むように、ふとした瞬間に、チクッと痛みが走り、ありゃりゃまだ刺さったままだったのか…と、存在を再確認するものだと思う。

例えば、小学生のとき、プールの授業で溺れそうになり、近くにいた友人の名前を叫んだところ、「いま呼び捨てにした?!あんたに呼び捨てにされる筋合いはない。先生に言いつける」と言われたことだとか。
例えば、高校生の頃に焼いて持っていった焼き菓子を、同級生が怪訝な顔をして「いらない」と断ってきた瞬間だとか。
例えば、世間知らずだったために、わたしの言葉の選び方や態度によってトラブルが起き、友人にこっぴどく叱られたことだとか。
例えば、通っていた塾の教え方と相性が悪く、塾を変えたいと母親に申し出たところ、「仲良い友達がいるからそっちに行きたいと言ってるんだろ!!」と、決めつけで疑いをぶつけられ、取り合ってくれなかったことだとか。

さあ…寝よう、とお気に入りのベッドに寝転がり、部屋を真っ暗にして、耳が痛くなるほど余計な音が何一つない空間に身を委ねたとき、それはふいに疼き始める。
走馬灯のように駆け巡り、今さらどうしようもないのに一人反省会、一人激怒会などを繰り広げたりする。

未熟による無礼も、親との歪んだ関係も、失恋の痛手も、ぜんぶぜんぶ刺さったままだ。
けれどそのトゲたちも、全部わたしである。
ぜんぶぜんぶわたしなのである。

小林製薬から、"心ノトゲポロリ"とか"心ノトゲダウェイ"みたいなお薬出てくれないかしら。

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