赤茶けた金属棒が酸性の液体で溶けはじめています!(小説)

側溝のフタを目で追いかける。

赤茶けた金属でできたそのフタは、美術的な装飾が施されていた。それはなんだか大聖堂のステンドグラスのようであり、同時に、小さい頃に家の近所にあった薄暗い工場の看板を思わせた。そしてその質感は、最初にこの街へやってきたときの風景とも結びついた。

そのときの私はバスに乗っていて、その車窓から外の景色を眺めていた。しばらく乗ると市設の文化会館が見えた。その文化会館はいかにも昭和らしい建築だった。きっと有名な建築家とかが関わったのだろう、特有の落ち着いた雰囲気があった。入口の壁の黒白タイルは角がとれてしまって、砂ぼこりの色をおびていた。その古い建築を横目にしていると、ほどなくしてバス停に着いた。そのバス停というのも手入れはされているが、文化様式的に風化しきっていた。きっと50年前からそこにあるんだと思った。そして、私も急がなくていいんだ、と安心した記憶がある。

私はこの場所へ戻ってきたのだった。祖父が亡くなったからだ。電車を乗り継いで、その終点で降車した人たちはみんな散り散りにどこかへ行ってしまったから、駅前には誰もいない。昔の記憶をたどる限りでは、もうちょっと人がいたはずだったと思うのだけれど。

私は、横断歩道を待ちながらぼんやりしていた。いや、ぼんやりしているのはいつものことだ。そして歩行者信号が青に変わったのがわかった。私は信号にワンテンポ遅れて動き始めた。そして向こうで停まっていた先頭車両は、私のさらにワンテンポ遅れて、ゆっくりと走りはじめた。私は勝手にシンパシーを感じた。ここではみんなそうなるんだ。ゆっくり過ごしていく。

それから小さな橋を渡った。橋というのはよいものである。橋はひらけていて、新鮮な空気が流れていて、宙ぶらりんで、でも確かな地面があって、つながることのない二者を分かれたままゆったりとつないでくれる。橋という存在はたいてい綺麗な地面でできている。乾いたタイルやアスファルトなどである。橋の構造も興味深いもので、さまざまな橋のかけかたがある。私たちが橋を渡るとき、常にそんな構造を気にかける人などほぼいないのだけれど、橋のカーブや地面の継ぎ目などをみると、やはり構造があるんだと感じさせる。そういうものが橋である。


そうして、私は祖父の葬儀に出た。私の祖父は、なんというか明るく乾いた性格の人だから、こういう湿っぽいこととは無縁だと思っていた。でも、祖父の棺が運ばれていくとき、気付いたら視線が上へあげられなくなっていた。口角がつっぱって動かせない。私は泣いているんだと分かった。父は、額縁に入った祖父の遺影を、私へ手渡した。

「ほら、お前が持て。」

私は私の胴体で遺影を支える。

「おう。さまになるな。」

父が何をいいたいのかわからない。マイクロバスに乗る。バスのなかで涙があふれてくる。バスというのは、密かに泣くために存在する場所である。たとえば大学帰りのバスというのは、ひどく内省的になって涙があふれてくる。そういうものだ。いまもずっと、大学帰りみたいなものだ。大学帰りなんだよ。すこし落ち着いて。ふと母やおばのほうを見ると、私と同じようになっていた。そうだよねと安心した。そうして火葬場に着いた。

火葬場のロビーは解放的な眺めだった。この建物は、なにもない田舎のランドマークとして機能しており、地元の人は俗に「焼き場」と呼んでいる。焼き場っていい響きじゃあありませんか。あっけらかんとして乾いていて、しかも「いつかみんな死んで焼かれるんだわ、ハッハッハ!」という感じ。少し救われる気がする。そしてその眺望の奥には、青い山々が凛としていた。さらに、虫の鳴き声の倍音成分だけが、ヒーンと耳に届いていた。

祖父がまだ生きているような気がしてならないのだ。突然のことだったから実感が湧かないのはしかたない。でも、少なくともいちばん「死」ということから遠い存在だと思っていたんだ。でも、今こうして棺に入って、ついには焼かれてしまったのである。なんということだ! 時間と因果がそうさせたのか!


翌日、ホテルをギリギリでチェックアウトしたあと、私は友達を訪ねた。

せっかくこのあたりへ戻ってきたのだから、彼女に会っておこうと思った。私が大学生になって上京してからは、しばらく疎遠になっていた。彼女はひとことでいうと変人で、あまり人と関わらず工学の本とかを読んでいる。そしていろいろ無頓着で無神経な人間だ。彼女からは祖父とまた別種のドライさを感じる。彼女の生き様を見ていると、こんな人間がいたっていいんじゃないかと思える。

彼女は玄関でタブレットの画面を見ながら言った。

「じゃあ、なにか思い浮かべてみて。」

私は、この街の文化会館を脳裏に思い浮かべた。ドアの向こうで計算機が稼働している気配がした。すると驚くべきことに、ディスプレイには文化会館と酷似した建物の画像が出力されたのである。

「また変なことしてる……。脳波から画像を作ったってこと?」

「うん。やってみたらできるかなって。そしたらたぶん世の中でいちばん精度が良いのができてさ。最近この手の技術が流行ってきてるじゃん。」

私たちは土足のまま妙な実験をはじめてしまっていた。おかげで私はもう葬儀のことなど忘れているようだった。彼女は他人への興味が薄いタイプだから、あまりそういう個人的な話に突っ込まない。もちろん、あえてそういう態度をとっているのではなく、それより自分の話したい事柄があるだけなのだが。私はそれにちょっとだけ興味が湧いたので、いじわるをしてみようと思った。

「じゃあ、今度はリエがやってみてよ。」

「私のデータで訓練させてるから、たぶん私がやるほうが精度が高いよ。」

「じゃあさ、観念的なものでもできるの?
 たとえば、死について思い浮かべてみてよ。」

ディスプレイには、赤茶けた金属棒が酸性の液体で溶けはじめているような画像が表示された。

(おわり)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?