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万博、文化、物語、大きな物語

昨日は最前列で観ていたこともあり、気になった点が僅かに合ったので記しておく。というか、イベント参加したことはなんらかの記録をとっておくか、という機運が高まったので突発的行動。

さて、昨日の議題は基本的には平行線の戦いで、エンタメとしては面白くなく、面白さを期待してきた人間からすると期待外れのものとなったろう。
この2人の会話が聞けて懐かしさを感じるくらいのことはあった。

基本的には最後に東浩紀本人が総括したように、言ってしまえば、猪瀬直樹はかつてからマネジメントの人で、大局のためにイデオロギーの垣根を越えて力を結集させることに尽力してきたといえる人間だ。
五輪には選手たちの物語があったが、万博には物語を打ち出していく必要があると東浩紀は語った。一方で猪瀬直樹は、沈んだ大阪を甦らせる起爆剤が必要で、それが万博だった。そのためのアイデアとして「いのちの輝き(であってかたなぁ)」という旗を立てて、集結させた。
様々な思想を持つ人間の誰もが許容できる旗が「いのちの輝き」で、万博を勝ち取るための神輿であった。
では、万博招致という役割を終えた後、この旗はどうするのか。「そんなものはやる気のある人間がなんとかする。ということですか?」と東が意訳したように、猪瀬直樹の言葉は、万博の必要性の話、そして歴史的経緯に終始した。
おそらくそうなのだ。
国内での政治的ゲーム、国家間での政治的ゲームで、猪瀬としては、大阪を(少なくとも経済的には)甦らせる起爆剤を確保できた。その爆破事業を誰がやるか、ということに、あまり関心はないのだろう。そこでも政治的ゲームを行う労力を割く気になれないではないか、と好意的に解釈することもできるだろうか。
東は、万博=文化事業においての物語の必要性を語る。今の時代だからなのか、東自身の理念なのか、そこについてはコンテクストを読み取れなかったが、万博を実施することについて国民の理解を得るには、彼らを納得させるられるだけの物語の提供者が必要じゃないか。そう言った趣旨のものであった。それ自体には、僕もそうで合ったらいいな、と思う程度には共感した。

さて、ここでひとつ、途中に質疑で若者の自殺問題についてどう思うのか、という話があったときに、猪瀬直樹は「大きな物語」の欠如に一端があるのではないかと自論を展開した。
「大きな物語」などこの現代において存在しない、日本だけでなく、冷戦構造を失ったこの世界、どこにだって大きな物語の力は疲弊し、パンデミックの前に崩壊したじゃないか。
なんて気持ちを僕は抱きつつ、不平そうな顔をしている東がなんと返すのかを見つめていた。
「大きな物語」には懐疑的な反応を示していたと、僕はぼんやりと記憶している。

これは、ふと思えば、逆転した構図ではないか?
万博の物語の必要性
大きな物語の必要性
これを互いに解きながら、一方では対立している。大きな物語という言葉が手垢まみれだからだとか言えばそうなのだけど、それだけだろうか。

僕たちは、現代において、フェイクニュースなどが典型的であるように、物語を欲している。明快で痛快でわかりやすい物語を。
東は万博に物語が必要だと言った、猪瀬直樹は若者の絶望に大きな物語が必要だと言った。
そして、お互いにそれを否定してる。
物語の必要性を感じるが、それとして機能する物語が見出せない時代。政治的ゲームと経済的ゲームを両輪として回転させ、空虚な金銭の増幅回転のみが力をもつことを、ぼくらはわかっている。

だから、互いに、誰もが認めるような物語がない世界で、僕らはどうすれば物語を共感できるのか、あるいは擬似的にそう言った状況を生み出せるのか、そういうことを考えた方が、いいんじゃなかろうか。

そこから先はプレイヤーが集結して、世界をアベンジャーズのように救ってくれるならそれに越したことはないが、きっと、アメコミヒーローは日本にやってこない。

賽の目を振るように、天賦の才をもつ政治家か官僚の登場を待つのか、育成するのかは知らないが、さて、物語なき世界に、物語をどう扱うかという自分の話に立ち返ろうか、

2月末の締切、間に合わないかも…
とりあえずやれるだけやるか…

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