アニメ「どろろ」感想叫び場(1)

夏休みだからって調子乗って、それまで見ていなかったアニメを見よ...と思い。

歴史好きなのも(長髪好きなのも)あって、サムネだけで見ようと決めた、2019年版のアニメ「どろろ」。

手塚治虫原作か〜、どんなんだろうな、と思って見てみたら、

私のド性癖貫いてきてヤバくてしんじゃった☆(語彙力)(ヲタクってよくしんでるよね)

という訳で、行き場のないクソデカ感情も交えた感想を、徒然なるままに書いていこうと思います。

もちろんネタバレするので、未履修の方で読むよーって方いれば、ネタバレOKな方のみでお願いしますね...!



「どろろ」感想(1) 世界観、全体を通して

■鬼神に世継ぎの身体を捧げる鬼畜設定
...なかなか鬼畜なことしますよね。笑笑

戦乱の世の中で、醍醐の国は荒廃し、民が飢え苦しんでいた。そのため、領主の醍醐景光は、鬼神と約定を結ぶ代わりに、醍醐の国の繁栄を確実なものにする。
その鬼神との約定の内容が、「醍醐景光の世継ぎの子の身体を奪う」というもの...。

誰や!こんな鬼畜設定考えたんは!!!(※手塚大先生です)

初手から詰んでるじゃないの。もっとこう、灌漑事業やるとか、現実的な策があるやろ。なんでヤバすぎる神通力に頼ったんや...

なんて、突っ込みたくはなるけど、醍醐景光は領主としての責務を全うするため、まさに「神にでもすがりたい」状態だったんでしょう。

実際、時代設定は戦国の前っぽいので応仁の乱前後、室町時代も末期ごろでしょうね。

戦いの時代において、先の見えない不安から、神仏に頼るのは、あの時代であれば当然のことなんですよね。そうやって宗教も繁栄してきてますし。

現実の世界(史実)で、そういう“神に頼って領国支配する”というのは、人々(被支配者層)に理解されづらい政治の理屈を説明せずとも、人々を団結させ、反乱を起きにくくさせる安心材料的な部分もあるんですけど、

この「どろろ」の世界観では、実際に鬼神の力が村を豊かにさせたり、廃れさせたりしている...

領国支配がひどい領主や、自然災害が実際の原因でも、今の日本でも語り継がれているような伝説では、神々の力を原因としている場合も多いですよね。

そういう伝承を上手く融合させ、史実っぽいファンタジーに仕上げられているのが良いですよね...

■侍、支配者層と農民、被支配層の関係性
主人公どろろは悪党の子供、そして共に旅をする百鬼丸醍醐景光の嫡男です。

本来なら彼らは被支配層と支配層。釣り合わない関係ですが、事情が事情なので2人とも割と被支配者的な考えをしていると思います。

顕著なのはどろろです。かなり性善説どっかの長男みたい

侍を目の敵にしています。まあ、それだけのことをされてきたとも言えますが、言うてあんたの父も褒められたことしてないんだよな...なんせ悪党のトップじゃん...だなんて思ってしまう私はちょっと支配層に同情的です。()

治安を維持するために、どうしても暴力に頼らなければいけない場合だってあるし(この時代の民衆ってコントロールするのマジで難しいし暴徒化しやすいし...)、領主が領主として居るために戦争をしなければならない場合もあります。

でも、どろろは侍というか権力者をどこか「横暴で悪い人」と見做しがち。まあ、この考えになるのは、立場的に仕方がありません。

最終的に、権力者を立てることなく、民衆みんなで領国支配する共和制に向かっていくような描写があったのですが、どろろ主人公なのでそうなるだろうな、と思いました。

史実でも、モデルとしているであろう時代(1400年代?)に、山城国一揆(山城国守護だった畠山氏を民衆が追い出して、その後8年ほど自治を行った事例)というのがあるので、案外あり得る話ではあります。

とはいっても、結構支配者層が悪めに描かれてると思います。それで良いです。笑

その分、支配者層たちの苦悩も目立つので。特に醍醐景光の子で百鬼丸の弟・多宝丸の辛さが強調されるのでね。

ある意味そういう領民と領主の関係性はステレオタイプなんですけど、原典よりも支配層目線が少ししっかり入ってるような感じなのかな?と何となく思います。

「どろろ」感想(2) 百鬼丸

■つぎはぎとかそーいうの、手塚先生は好きなんか...?
ちゃいますん?
ブラックジャックもなんとなくそんな感じ?したけど...性癖一緒でありがてえ!!!

生まれた時から詰んでる百鬼丸、全身作り物で一体どーいう理屈で動いてるんだ?ほぼカラクリじゃん...という生き物。

本当に可哀想な生き物なんですよね(こういうキャラが死ぬほど性癖です)。

でも、元々付けてるお面も美人なのに、モノホンの顔を手に入れてもクソ美人長髪男って...奪われた身体を手に入れていくたびに、完全に勝ち組になっていく百鬼丸くん....オヨヨ...

常に若干焦点が合っていないオメメ、本当に好き。見えてない感じがたまらん...

そして、オメメが最後に返却されるのも分かってるよな...最高の(えぐい)タイミングで、“景色”をプレゼントするシナリオには脱帽でした。

■身体を取り戻す過程で
百鬼丸は父の醍醐景光が鬼神と交わした約定によって、身体の部位をことごとく奪われてしまいます。しかしなぜか生き残り、修練を積み重ねます。鬼神を倒すことで失った身体が元に戻ることを知ってからは、鬼神潰しの旅に出ます。

身体が欠損している彼は、心の目で相手の魂の色を見るなどして、善人か悪人か鬼神かの判断をしている状態でした。

なんとなく、何もかも奪われたとはいえ、全てがその“感覚”に委ねられているという意味でのような存在なのではないか、と思います。

そんな神のようだった彼が、鬼神を倒して身体を取り戻す過程で、いわば「人間らしくなっていく」んですから、当然「人間らしい感情」も備わっていく訳です。

おそらく感情「怒り」を獲得したのは、自分達に良くしてくれた、売春婦をして孤児を育てていたミオや孤児が、敵軍への内通の疑いで侍に斬られた時なのではないかと。

百鬼丸は怒りを抑えられず、怒りに任せて、多くの侍を殺してしまい、いわゆる「人を殺めてしまう」。

これは貧しさが生んだ悲劇で、生活のために敵対する陣の両方で身体を売ってしまったミオが、敵の内通者だと疑われてしまうのが本当に切なかったです。

一方で、侍たちも内通者を始末しろと上から命令されているので、従わざるを得ない...

百鬼丸は百鬼丸で、おそらく大切にしたい存在だったミオを殺した侍に対して怒りが芽生え、結局殺害してしまったのですよね...

人を殺した後、鬼神が持つ赤い魂の色が百鬼丸自身にも現れるようになって、分かりやすくて良かったです。

■人間らしい感情
先程、百鬼丸に怒りが芽生えた話をしましたが、鬼神を倒して身体を取り戻し始めると

初めは何を考えているか分からなかった百鬼丸に、明確な「意志」が生まれるようになります。

その意志の中でも最終的に大きくなっていくのは、「自分の身体は自分のもの。取り戻したい。」というもの。

民が犠牲になっても取り戻したいという明確な意志に、「」が垣間見えるのが、すごく人間らしい成長を感じるわけです。

仏教用語に五欲というのがあります。

これに対して起こる情欲が五欲です。

財欲色欲飲食欲名欲睡眠欲

を五欲という場合もあります。

実は、は、欲望を引き起こす原因になるということで、五欲って呼ばれてるんですよね。

百鬼丸も、もともと目や声や嗅覚など、人間に必要な感覚を奪われていました。

目が百鬼丸に返ってくるのは最後ですが、五欲の幾つかが百鬼丸に返ってきたことで、百鬼丸にも「欲望」という感情が備わったように思えます。

(それと同時に、何かを犠牲にするという冷酷な感情も。)

物語の中盤からは、自分の溢れる欲を制御しきれず、鬼神を倒しても身体が手に入れられない場合は鬼神を滅多刺しにしたり、叫んだりと暴徒化しているため、この五欲の思想に近いのかな〜なんて思ってました(原作の手塚先生はブッダとか描いてるし尚更ね...)。

人間は108の煩悩を持っていると言います。
除夜の鐘を108回鳴らす所以ですよね。

煩悩とは人間の持つ欲であると同時に、人間が生きていく上で「」になるものでもあります。

ただ単に身体を取り戻すという行為が、身体のパーツが揃っていくにつれて、百鬼丸自身が苦しむ場面もあります。(煩悩の塊の視聴者ワイも苦しかった)

先程は百鬼丸を神のような存在だと書きましたが、ある意味で仏だったのかもしれないな...まあこの国は神仏習合ですから!笑笑

胎児だったのかもしれんとも。
そういえば百鬼丸が生まれてすぐ川に流されてる描写があるけど、それはそれで日本神話の蛭子みたい...!

深掘りするほどいろんな要素があって面白い。
案外、生まれたての赤ちゃんが成長していく過程ってこんな感じなのかもしれません。

____________感想叫び場(2)へつづく...

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