味の素論争が自分の中で終結した話
今日豚キムチ炒めを作っていたんだけど、普段はめったに使わない味の素を使ってみた。
自分で想像したレベルを2段超えるくらいにおいしかったのね。
みりんや酒、砂糖を控えめにしよう取り組みの中での選択。
普段はなんとなく使わないほうが偉いみたいな気持ちがあった。
リュウジやホリエモンが、「味の素神!」と言ってるのは前から知ってたし、
食べてみたら実際美味しいんだけども、味の素を使わずにおいしく作れるならそのほうがすごくない?みたいな。
「味の素はドーピング」理論みたいなものを持っていた。
勉強にいかせてもらってる料理屋さんの大将は味の素とか使わないし、素材も養殖や人工の調味料よりも天然物にこだわる。
もちろん養殖を悪としてるわけじゃないし、実際に使うけど、価値としては天然物を使いながら美味しいのを提供したいっていうスタイル。
もしかするとそれは、「自分の知らないところで人の手を借りたものよりも、自分で頭から終わりまでやりたい」みたいなこだわりなのかもしれないので、僕のドーピング理論とは違うけれども。
そんなこんなしていてふと思ったのは、料理に求めている方向性がアートというか技術五輪みたいなことなんじゃね?みたいなこと。
己の舌と、レシピを作るという頭。
限られた時間とリソースの中でオーダーに答えるというチャレンジ。
コースの取り合わせをお客さんに喜んでもらえるというセンス。
色んな面で自分の技量をお客さんにぶつけて、自分の生き方が浮き上がってくる。
提起とレスポンスを楽しむアーティスティックな世界を料理に求めているような、そんな感じ。
一方、純粋に”味としておいしさ”の追求の先にあるのが、調味料の開発だったり養殖業の展開だったりするのかなと思う。
”天然物”というブランドを徹底的に突き詰めてくなら、食材としての豚や牛、鶏卵なんかは使うのはNGってことになる。
人類の技術の積み重ねの上に食文化が成り立っていて、その中で継承されていくものもあれば淘汰されるものもある。
その連綿とした営みの先を創っているのが、開発的な料理であるとしたら、
そんな事を考えたら、純粋に美味しさを求めるなら味の素でも養殖でもガンガン使えばいいと思った。純粋に美味しさ(と手軽さの両立)を追求する競技なのだから、それがいいことだと思う。研究者や開発者のような役割。そこから技術は生まれるから、僕のような庶民にとってはありがたい存在でしかない。
で、いわゆる料理人、シェフ的な目線で美味しさを求めるなら素材と技術(個人のスキル)で勝負するのがいいことだと思う。
だから食べに行く楽しさみたいなのもあるしね。
これはもう「どれだけリアルな絵を描けるか」ってのと、「写真のほうがリアルでしょ」の闘いみたいな構図だなと。
あるいは、「百メートル走」と「モータースポーツのゼロヒャク」みたいな。
求める場所が一つでも、競技が違う(実現する手段が異なるゆえに突き詰めていくべき過程が違う)んだから、落とし所は一点に定まらないよねと。
絵も写真も、100メートルの速さも、その世界で追求している事柄はその世界のモノサシで見ないとアンクリアだよねというふうに感じたのです。
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